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【民俗学漫談】通過儀礼

今回は、通過儀礼についてです。通過儀礼。とある儀礼を通過します。通過して、どうするかと言うと、とある共同体、組織に入れます。そういう面から言えば、加入式とも言えますね。

社会的な共同体でも、宗教的な団体でも、存在している以上、すでにそこに権益があります。権利と利益ですね。それをやたらと開放するわけにはいかない。秩序がありますし、人間の心理もあります。フリーではない、何かを通過してきたということにして、自分たちの権威づけをする場合もあります。

ただ、人は入れたい。門戸を閉ざしていては維持もままならない。

そこで、共同体に入る場合に試練を課す。テストですね。

テストをクリアしたら、まあいいんじゃないか。信用できるんじゃないか。せいぜい頑張るように。となって、入ることになります。

具体的に。

赤ん坊の通過儀礼


日本だと、通過儀礼と呼ばれるのは、赤ん坊の時からあります。

まず、七夜(しちや)。生まれてから7日目の夜に名前を付けます。名前を付けることによって、この世に存在が認められます。名前ですよ。名づけですよ。言霊ですね。存在を示すものですよ。

「7日過ぎたらもうしばらくは大丈夫なんじゃないか」と昔の人は考えた。これもその子を信用するわけですね。だから名を与えて、存在を認める。もちろん、自分たちの属している共同体内部の存在として認めるということですよ。

続いて、初宮参り。一ヶ月くらい生存していたら、また一つクリアということで、神社などに参拝します。こういうのは、全員やっていたわけじゃありませんがね。近頃はどんどん参加率が増えているみたいですね。不安なんでしょうね。クリアしていかないと。達成率が100パーセントじゃないとね。ただ、昔からやってはいました。遥かな昔じゃありません。ある程度の昔ですよ。これで、「共同体に仲間入り」です。

共同体の中心を神社と仮定すると。ただ、日本の場合は、一筋縄ではいかないというか。共同体の中心であるべき神社なる場が、どうも、通常の感覚の中心ではない。なにか、日本人の場合、中心が恐ろしいのか、聖なるもの過ぎて自分たちの日常に置いておけないというか、中心が外にある感じがします。日本の共同体は。下手をすれば、会社でも学校でもそんな気がします。

それはそれとして、初宮参り。これは、私も神主をやっていたときに執り行っていました。いわゆる初々しい赤子をご両親が抱えてきますね。大抵祖父母もついてきて。やることは、お祓いと祈祷で文面以外変わらないんですけどね。まあ、皆さん、立派な格好で来ますよ。レンタルなんだろうなあ、と思いながら見ていました。一度、あまり羽振りのよくなさそうなシングルの方が来た時に勝手に祈祷料を八割引きにして、後で宮司ともめたことがありました。まあ、思い出です。

初宮参りと同時にお食い初めがある。これは、石を赤子の口に触れさせて、「丈夫な歯が生えますように。早く自分たちと同じものが食えますように。」と願いを込めた儀礼です。食べ物は、その象徴的な意味において、共同体への帰属を意味します。食卓がない家とか、つらいですよね。

食べ物を共に食う。同時に同じものを食うというのは、ただ、楽しい、うまうま。に、とどまりません。共に同じ場に属する人間だ。敵じゃない。ということを示しているんですよ。だから、お祭りの後でも、長い旅から帰ってきた人を迎えた後でも、ともに食べる宴会が行われる。組織に新しい人が来たら歓迎会をやる。ごはんを食べないデートはないでしょ。二人の世界を作って、そこに二人だけが属するわけですから。私は、そんなに経験ないですけどね。軽い言葉で「ランチデート」なんてありますが、「ティーデート」はないですよね。お茶だけのデートとか。それじゃ、ミーティングです。「今日は、外でやろうか」みたいなね。

赤子の話でしたね。今言ったように、赤子の通過儀礼は、自分でやるものではなくやってもらうものにとどまっています。

七五三


自分で意識して「参加してる!」と思っているのは、やはり七五三でしょう。

七五三。私は、この年齢に意味があるとは思っていません。

だいたい女子の三歳くらいから、男子は五歳くらいから通過儀礼が始まって、七歳くらいで人として認められた。もはや、そうそうあの世へ行かないだろうと、信用されるようになったということだと思います。危ういんですよ、七つくらいまでの魂は。「七つまでは神のうち」ですか。この場合の「神」は、個人的に告白をするあの「神」じゃありませんよ。あ、この場合の告白は「あなたを愛しています」的な告白ではありません。一応。

この場合の「神」は、簡単に言うと、別の世界の霊の事ですね。それを日本人は「かみ」と呼んでいました。御先祖様があの世へ行くとやがて人格が消えて、「かみ」となる。それが山の向こうなのか、うみの向こうなのか。そういう信仰です。

続いて元服があり、女子では裳着(もぎ)なんていう儀式で、大人と同じ格好をするようになります。もう一人前です。それが身なりに示されています。

はい、それで共同体に入りました。一員です。共同利益にあずかりましょう。

今の日本で行われていることを見ましたが、こういうのは、「変身型の通過儀礼」ですよね。変身して、別の人間になる。より以上の存在になる。自分の行動によって自分を変えるわけではなく、自分の内面を外のものである服装によって変化させる。着ているものが、着る人の魂を変化させ、作り上げてしまうという信仰がそこにあります。

もしかしたら、日本の漫画やアニメが変身物が多いのは、そういう文化もあるかもしれません。

バンジージャンプ


それに対し、やっぱり、世界で有名な通過儀礼はバンジージャンプでしょう。

ダイブします。空(くう)に向かって、己の体を放ちます。これは「行動型の通過儀礼」ですね。自分で一歩を踏み出すか、その場で変わるかの違いです。

バンジージャンプは、今、自分がいる水平線上から飛び降ります。次元を変えるわけですよ。垂直運動によって。日常って、水平運動なんですよ。自分がいる場から、別の場に行く。帰ってくる。それの繰り返しです。何も変わらない。でも、何かがたまっていく。それが日常。エレベーターがありますね。あれ、不思議な装置ですよね。ありえません。あんな動きは。真上にそのまま移動するんですよ。驚きですよ。私は、ひとりでエレベーターの真ん中に立って、十階くらい移動すると、妙な気分になります。通過儀礼だから、一人なんですよ。みんなで乗っていると「早く着かないかな」くらいで済むんですが、一人で乗っていると、通過儀礼が開始されてしまうんですよ! 九階で降りた私は、さっき二階から乗った私ではない、見たいな。夜だし。

エレベーターは、時間軸に沿って前に向かうべき人間が垂直に上がる事を可能にするものなんです。  

日常ではせいぜい坂とか、山とか(山は日常ではないんですが)、せいぜい斜めの運動で、それでさえ、危うい行為、別の世界の入り口に向かってゆきかねない行為でした。

バンジージャンプも飛びます。べつの水平線上に向かいます。沈んで潜(もぐ)って、くぐり抜けて通って、浮上する。生まれ変わる。よみがえる。復活する。再び、元の地平線上に降り立つ。おお、魂が変わっている。素晴らしい。人として信用に足る。とそういうわけです。

そうして、共同体の一員となって、新たな人生が始まる、とこういうわけです。

まあ、度胸試しなんだろうけどね。肝試しですね。そのままの意味で。

まとめ
もちろん日本にも、各地に行動型の通過儀礼はあります。島まで泳いで帰ってくる、山に入って帰ってくる。

基本は、今ある場を出る。別の世界に行く。帰ってくる。この流れです。

やり方はその土地によって、その組織によっていろいろあります。大まかに二つに分けましたがね、服装が発達していた文化、たとえば日本の平安時代の宮廷文化では、変身型の通過儀礼が発達し、やがてやがて、時代が下って庶民に広まった。

それに対して、服装が発達していなかった南太平洋の島や、昔の日本のたいていの人びとは、行動型の通過儀礼を行なったんだと思います。

通過儀礼は、今の自分の殻を破る。今の自分を超える。一度越えなくてはならない。突破しましょう。突破しないと成人に成れません。ということを共同体の保護の下、つまり共同体のルールの下で行われるものです。

現在の通過儀礼


最近は、イベント化が記念化が進んでいますね。商業になっていますね。通過儀礼や加入式を広告するのはどうなんでしょうね。

成人式は、現代の通過儀礼で自治体が行っている式典ですが、あれをクリアして何になるというものでもないでしょう。ただ、はしゃぎたいのは人の常ですからね。

ある種の通過儀礼は、今や就職活動だと思いますね。

大学は、就職の前段階でしかない。

就職するために大学に入る。

就活が始まれば、リクルートスールに身を包む。まず、変身だ。

そうして、いままで関係のなかった別の世界に会社訪問に行く。入るには、筆記と面接を突破しなければならない。四年生の内に合格して、再び自分の地平に戻れたものだけが、一人前と見なされる。

内定式はまさしく加入式であり、就活という試練を乗り越えた者が「新入社員」としてその共同体に受け入れられるのである。それまでの小児的な生を死滅させ、新しい、引き締まった生命体へと再生する通過儀礼なんですよ。

象徴的に言うと、胎内回帰と同じように、就活という怪物に呑み込まれて、自力で復活しなければならない、ということになります。

現状、これが共同体に加わる、もっとも確実で危うくない方法なんだ。

無理なら嫌なら拒否したいのなら、みずから、「自分はこういう別個の通過儀礼を突破しました」と示さなくてはならない。

民俗学の対象に日常的に関わっていながら、何をしているのか知らない、というよりも、意識しようとしない。
昔の宗教は、今の法律の代わりになった。血縁関係以外の共通感覚として。しかし、今は法律が整備されている。「法律を守る」というのが現代人の共通感覚である。そこで宗教は、その信仰抜きで形だけが残ってしまった。

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