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【自伝(2)】拗らせのーこの半生(2009年6月・20歳〜2010年12月・22歳+祖父の話)

前回の記事を読み直した時に、祖父が亡くなったことがあまりにも薄く書かれているなって自分で思ってしまった。
なのでちょっと書き足します。

私の祖父はとても聡明な方だった。
まだ私たち孫が小学生くらいの時に、祖父が話してくれた「人間の血管は一本よりも少ないんだよ」という言葉がとても印象的である。
言い回しが好きだなって思った。

祖父と一緒にお墓参りに行けば、既に自分のお墓の場所を購入していて、「爺ちゃんは死んだらここに入るんだよ」とよく話してくれた。

自分のお爺ちゃんお婆ちゃんはどうしても先に天国へ行ってしまうものだし、そうでなければいけないことを分かっているというのもあるのだけど。
祖父が亡くなった時、不思議と寂しいとか悲しいとかそういった気持ちはなかった。

お葬式の時のちょっとやらかしたエピソードを。
祖父のために、公民館に沢山の人が集まってくれた。
私は姉たちと一緒に正座をし、焼香の順番を待っていた。
実はちょっとずつ気づいていた。私の足が痺れていることを。
でもいくら孫とは言え流石に崩すのは気が引けて、なんとか堪えていたんだけども。
まぁ案の定、私の順番が回ってきた時に立てなくてコケたよね。
若干の失笑が起きた。爺ちゃんごめんって思った。
後から姉に「笑いそうになっちゃったじゃん!いい加減にしてよ!」と怒られた。

祖父が亡くなってからお墓参りに行くと、祖父が話してくれてた場所にお墓が立っていた。
ここに爺ちゃん寝てるんだなぁって。

やっぱり寂しくない。ずっといるんだなぁと。

なので私の中ではだいぶ薄い話として書いてしまった。爺ちゃん、ごめんね。
でも許してくれるの知ってる。


それでは前回の続きを書いていきます。
S君と別れた後しばらくは殆ど引きこもりのようなもので、家と実家のお店と病院の行き来くらいしかしてませんでした。
なのでこの辺の時系列が全く思い出せません。

2009年6月頃から2010年12月頃まではこんなふうに過ごしていたよと、覚えていることをとりあえず書いていきます。

そして私からのお願いです。
私の自傷行為などの生々しい描写が出てきますので、苦手な方は先に進まず戻ってください。
あと、現在死にたいと思ってしまうような方も読まないでください。
夜寝る前に読むのもお勧めできません。
読んでも気持ちがマイナスに働かない自信がある方だけこの先に進んでください。








S君と別れた後、実家に戻った。
S君のことは友達と遊ぶことで忘れられたが、だからといって鬱が良くなった訳ではなかった。

ずっと希死念慮に囚われていた。
急に会社に行かなくなり、そのまま辞め、沢山の人に心配や迷惑をかけた。
こんな自分には生きている価値がないとひたすらに思い込んでいた。

それまではしっかり者で、仕事もミスがなくて、明るくて、人とのコミュニケーションもちゃんと取れていて。
そんな「のーこ」を周りの人は評価してくれていたはずで。

だからそんな「のーこ」を崩すのが怖くて仕方がなかった。
期待に応えるために必死に無理をした。
もしみんなが本当の私を知ってしまったら失望するんだろうなと思っていた。

そんな「のーこ」が崩れてしまった今、何で自分は生きているのだろうと。
自分が生きていることを許されていることが苦しかった。

なので度々リストカットをしてしまっていた。
やってはいけないことだと分かっている。
(今現在は自傷行為は行っていないので安心してくださいね。する気もありません。)

誰も私を責めない。怒らない。
じゃあ誰がこんな私を罰してくれるんだ?
自分しかいないじゃないか。

家に一人になるとこんな思いに何度も襲われ、頭に血が上り無性に死にたくなってしまう。
でも死んではいけないことも分かっている。死ぬ勇気もないし。

でも死んでしまいたい。生きている自分を許したくない。
そんな言葉たちが頭の中を埋め尽くし、過呼吸が起こる。

そんな時に私はリストカットをしていた。
敢えて切れ味の悪いハサミを選び、片方の刃を手首に当て、力を入れて左右に動かす。
もちろん痛い。血も出てくる。
でもそうすると、私の頭に上っていた血がスーッと降りていくのが分かる。
呼吸も落ち着き、冷静になれる。
自分に痛みを与えることで、死にたいとしか思えない自分を少し許していた感じだ。

下手すれば本当に死んでしまうので絶対にやってはいけないのだけど、この時の私にとっては生きるためにやっていた行為だった。
まぁまだ傷跡残ってるし、後悔してるんだけどね。

だが、本当に死のうと思って薬の過剰摂取もしてしまったことがある。
(一応言っておきますが、絶対にやっちゃ駄目ですよ。)

いつか実行しようと、薬を少しずつ溜めていた。
家に一人の時に、何錠かは忘れたが一気に飲んだ。
意識が混濁し、それでも母からきたメールに返信をしたのは覚えている。
まともに文字が打てなくて、どう見ても危ないメールが母の元に届いたらしい。

とりあえず生きていた。当たり前だがとにかく体調が悪くなった。
死ぬために有効な手段じゃないなって、そんなことを思ってしまった。
(心配させてしまうだろうからちゃんと言っておきます。今は希死念慮なく生きたいと思っています。)

きっとそんな私を親はめちゃくちゃ心配しただろうし、いつか本当に死んでしまうのではないかと不安で仕方がなかったはずだ。

ただ、私の家庭はあまり仲がよろしくないと言うか。
父と母と姉と私の四人家族で。
それぞれが不器用すぎるくらい不器用で、お互いに家族としての愛情があるはずなのに、みんなそれを出せずにいた。

だから私は家族からの心配とかに気がつかなかった。
これは気がつかない自分が悪いのだけど。

私はどうしてもリストカットをしてしまう。
そんな私の手首を見た父は、何も言わず黙って一万円をくれた。
今ならこれは父なりの心配と優しさの形だと分かる。
だが当時の私は、「お金じゃなくて言葉がほしいのに」なんて思ってしまった。

実家は当時飲食店を経営しており、私を家に一人残すのは心配だからと手伝いに駆り出された。
鬱とはいえ、学生の頃からよく手伝っていたのでそれくらいなら出来ていた。

親は私にホールを頼んだ。
それがものすごく嫌であった。
なぜなら、お客さんの前でリストカットだらけの手首を晒さないといけないからだ。
ホールとはいえ食器洗いもしていたので、袖で手首を隠すことができない。
生々しい傷跡を見せないようにと、せめてもの配慮として絆創膏だったりで隠していたが、それはもうね。
分かる人には分かるじゃんと。

何で私にホールを頼むんだろ。
厨房ならお客さんに手首見せなくていいのに。

私のことを心配してそばに置いておきたい親の気持ちに反し、私はこんな不満すら抱いてしまっていた。
まぁ多分、単純に親がそこまで気が回らなかっただけなんだけども。

そしてそんな不満があるのなら、私も親に言えばいいのにね。でも言えなかった。
私はずっと家族に対しコンプレックスがあった。


ここまでで結構な文字数なはずなので、家族に対するコンプレックスについてはまた別の記事で書こうかなと。
簡単に言ってしまえば、私は機能不全家族の中で育ったアダルトチルドレンです。
家族の中での私の役割は「ヒーロー」でもあったし「スケープゴート」でもあったし、「ロストワン」でもあったし「プラケーター」でもあった。
あくまで私の勝手な認識で。
その中でも「スケープゴート」が特に強かったかな。
とにかく私は駄目な子として育てられた。

だから私は今でも、家族とはまともに話ができない。
他の人とは流暢に喋ることができるのに、家族となると急に言葉が出てこなくなってしまう。

そんな家族をかなり恨んだこともあったし、今でもまだモヤモヤすることはある。
けどだいぶ家族の気持ちを理解するようになったし、許せるようにはなったと思う。
あまり自信はないけれど。


話を戻そう(ぺこぱ)。
とにかくこの時期は死にたいしかなかった。
だから覚えていることもそんなにない。
それでもまだマシな方である。
そう、この時点でもまだ平和でマシな時期なのだ。

多分次の記事から、私にとって一番辛く一番反省するべき内容になります。
無理して書いている訳じゃなく、それらは私の一つの経験として受け止められるようになったからこそ、今こうして書いています。

noteをやっていて思ったことは、私の武器は文章力でも表現力でもなく、私自身の経験です。
良くない経験ばかりなんですけどね。

でもそれらがあったから今の私が存在している訳で。

そんな私を強いと思う方もいるでしょう。
確かに私は強いかもしれません。
逆境を乗り越えるパワーと言うよりかは、じっと堪える忍耐力と言う意味で。

でも、私が強いとか弱いとか、この記事を読んでくださる方が強いとか弱いとか、そんなことにあまりこだわってほしくないなって思います。

みんな辛い時は辛いし、楽しい時は楽しい。
そう感じる心に強いも弱いもなく、ただそれだけをそのまま受け止めればいいだけなのです。

偉そうなこと書きました。すみません。
色んな経験をしてきたのーこからの適当なメッセージとして聞き流してください。

でも一つだけちゃんと言えることは、今を生きている人はみんな凄い。

今回は思い出すことも少なかったので、この辺にしておきます。
こんな記事を最後まで読んでくださってありがとうございます。

これだけじゃあれなんで、生きていくことに悩んだ時に聴くと元気がもらえる曲の動画を貼っておきます。
ぜひ聴いてください。特にこの記事をちゃんと読んでくださった方は。

それではまた次回。


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