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【自伝(1)】拗らせのーこの半生(2009年4月・20歳〜2009年5月)

作詞というものは、無から有を生み出す行為です。多分。経験から書くことが多い気もするけど。
他にもnoteで何か書きたいけど、無から有を生み出すのは作詞だけで手一杯です。
それなら有から有を生めばいいじゃない。

ということで、私の20歳から今現在までの半生を自伝として書くことにしました。
なるべく詳細にあれやこれを。きっとボリューミーです。めっちゃ長いです。

適当にお付き合いいただけたら幸いです。

それでは、2009年4月・当時20歳だった頃のお話から始めていきます。



のーこ、1988年8月生まれ。現在32歳。
2009年4月、20歳。当時私は休職中であった。

高校卒業後、タオルやバスグッズ(車のバスと勘違いされたことあるけどお風呂の方)の製造・小売会社に就職。
その会社のIT部門に所属していた。

ITと言っても専門的な難しいシステム面やハード面は委託先の方に任せており、主に社内システムの運営・管理、あらゆるデータの作成などを担当していた。

商業の高校に通っていたので、パソコン関連の資格は取れるだけ取った。
ワード、エクセルのスペシャリストなど諸々。今ではもう古いけれど。
就活ではそれらが主に評価された。

だが私は、本来であれば大学に進学したかった。
親にお金がないからと反対され、「じゃあ働いてお金貯めたら行くわ」という考えでの就職。

まぁ当然のごとく、理想と現実のギャップに徐々にメンタルがやられる。
同い年の子の殆どは進学して、自分が学びたいことを学んでいる。
私はというと、大学進学や一人暮らしする為のお金を稼ぐためにデスクワークする日々。
また、理由は後述するが、高校生からOL時代は友達と遊ぶということが殆どなかった。
毎日仕事で、休日はヘトヘトになった体力を回復させることしか考えず、楽しいことが何一つない。
そんな生活を送っていた。

高卒で仕事することが悪いことではないが、本来やりたいことと別のことに時間を費やし、私の本当にやりたいことは何かと常に悩んでいた。

毎日サービス残業。高卒のため手取り15万。
就職してすぐは実家暮らしであったため、毎月3万は家に納めていた。

お金のために働いているのに、お金が貯まるペースが遅く感じる。
自分のやりたいこと、自分の自由のために働いているのに、それが叶う気配がしない。

最初に感じた心身の変化は、寝ている時に金縛りにあい呼吸ができなくなったこと。それがほぼ毎日。
自分で意識して呼吸をしないと止まってしまうので、その怖さからよく眠れなくなってしまった。

そして仕事中はパソコンの画面が歪んで見えるように。
催してもないのにトイレに行き、しばしボーッとする時間も増えた。
同期の子と一緒にご飯を食べるのも苦痛で、時間が合わないからと適当に嘘をついて公園で一人カップラーメンを啜っていた。
美味しいものを食べようとも思わなかった。

そんな日々が続き、2009年3月。
たまたまノロウイルスに罹り、しばらく会社を休むことに。
あれだけ必死に色んな仕事をこなしていたけれど、私が休んでもどうにかなるという事実に気がついてしまい、張り詰めていた糸がプツッと切れた。

私はノロウイルスが治ってからも会社を休むようになった。
しかも休む連絡をメールで済ましていた。
電話で話すのが怖かった。

この時には当時お付き合いしていた人と同棲しており、私と同い年のその人も同じく高卒で働いていた。その人をS君としておこう。S君はまだまだ出てくるので。

月曜日が始まるとS君は会社へ、私は布団に包まり一日中何もせず、会社に行けない自分を責めてばかりいた。

さすがにこれはと思い、精神科へ。
鬱、不安障害、不眠症など診断される。
この時から精神科のお薬に頼るように。

この時に一回だけカウンセリングを受けたことがある。人生で最初で最後のカウンセリングだ。
その時受けた病院が多分相性が合わなかったのだろう。
診察室に沢山の知らないお医者さんに囲まれて自分の話をすることに対し、恐怖と苦痛と吐き気に襲われ、それ以降カウンセリングには行けなくなってしまった。

会社へも病気のことを話し、休職生活へ。
しばらくは傷病手当を貰っていたので生活には困らなかった。

しかし、いつまで経っても私の精神は良くならなかった。
S君には相当のストレスであっただろう。

このS君とは高校1年の冬からお付き合いが始まった。私の初めての彼氏である。
私の人格形成において、このS君の存在は大きいので、少し遡ってS君とのあれこれを話そう。

他校の友達の紹介で知り合った男の子で、一目惚れされた形で付き合うことになった。

このS君。
最初こそ普通にいい子だったが、本性を現すととんでもないワガママモンスターであった。

もう本当に酷い。束縛とか酷い。
私が男友達とメールするだけで嫉妬される。それはまぁまだ分かる。
女友達と遊ぶことすら許されなかったのだ。

まず、私は定時制高校に通っていたため、他の子とは生活リズムが違っていた。
お昼にバイトして夜は毎日学校だったので、全日制に通っていたS君とは会える時間が土日しかなかった。

私は元々寂しがらない性格なので何ともなかったが、S君は手に負えないほどの寂しがり屋であった。
それが原因で何度喧嘩したことか。

私だって好きな彼氏と一緒にいたい気持ちはもちろんあって、土日はS君と会うために時間を使っていた。
だがそれでも足りないと駄々をこねる。
言い方これだと可愛いな。めっちゃキレる。

とにかく面倒くさいのだ。
なので私は平日の空いた時間もS君に費やすようになった。
学校は大体夜の10時頃に終わり、それから一時間ほどかけてS君の家へ。
S君の家庭はまぁ複雑で、この辺に関してはS君に申し訳ないので省略する。
夜に女の子が泊まりに来ても問題がない家だった。
S君の家に泊まり、私は朝起きて駅前の松屋でご飯を食べてから一時間かけてバイトへ。
バイトが終わったら一旦自分の家に帰り、愛猫と一緒にお昼寝。
それから夕方に学校へ向かっていた。
そしてS君家→バイト→自分の家→学校→S君家という、毎日のルーティンができあがった。

だがしかし。もちろん私は親にこってり怒られる。そりゃそうだ。
女の子がずっと彼氏の家に泊まりっぱなしだもの。

その時の私は本当に参っていた。
S君家に泊まらないとS君にキレられ、自分の家に帰らないと親に怒られ。
私の体は一つじゃ!どうすりゃええんや!!ってなっていた。

反抗期も重なっていたので、私はS君のご機嫌を取ることを選んだ。
次第に親は諦めた。今思うと本当にこの時の親には申し訳ない。

それくらい私はS君へ自分の生活を捧げていた。
友達とも遊ばず、学校の行事を休んでまで。

男友達の連絡先は全て消され、たまにはいいだろうと女友達と遊ぼうとするとキレられる。
当然私も理不尽だと言い返す。
なぜなら、私はS君が私抜きで誰と遊ぼうと何も文句がなかったからだ。
友達と遊びたいのはみんなそうで、だから遊べばいいじゃんと。
そして女の子と二人で遊ぼうとも何も思わなかった。
ここに関してはヤキモチ妬かない私が悪いのかもしれないが、S君が私のことを大好きなのを知っているから何とも思わんって話で。
そんな状況でS君が友達と遊べているのに、私が女友達とすら遊べないのは不公平だ!
私はこう主張した。

するとS君。
「何で友達と遊ぶ俺にヤキモチ妬かないんだよ!」とのこと。

そんなん知らんわ!!!!!

本当に手に負えないワガママモンスターなのだ。

学校の宿題は全て私任せ。
それ自分でやれよ。
でも喧嘩になるのが面倒なので結局やってた。

S君も高卒で就職したのだが、その面接当日の早朝、S君から電話が。その時私は自分の家で寝ていた。
「今すぐ俺の制服にアイロン掛けに来い。来なかったらキレる」
自分でやれよとも思ったし、それ言うならもっと早く言えよと思った私は末期である。
早朝わざわざ一時間以上かけてS君の制服にアイロン掛けに。
私の記憶が正しければ、ありがとうの一言もなかった。

当然何度も別れ話はしたが、私も甘々な性格をしているので、死ぬとか言われると別れられなかった。

改めて言うが、S君は非常に複雑な生い立ちであった。
なのでS君の心もまたとても弱かった。

理不尽にキレるし、とにかくムカつくし。
それでも、帰らないでと泣かれると私は弱いのである。
一人が寂しいと、私の胸で泣くS君をただ抱きしめた夜もあった。

なので憎みきれず、グダグダと付き合いは続いた。

そして話が戻り、20歳の頃。
まだお付き合いは続いていて一緒に暮らしていたが、今度は私が鬱に。

するとS君。私に暴力を振るうようになる。
いや、正確に言うと高校生の頃から全力ビンタはされていた。愛の鞭とか言われて。
普通にめっちゃ痛かった。でもこの時には完全に共依存状態で、この人には私がいないと駄目だと思ってしまっていた。

でも私が鬱になり落ち込み、一日中泣いていると向こうがキレ出す。
そして殴られる。
夜中眠れなくて、これまた体育座りで一人泣いていると、五月蝿い!と怒鳴られ、後頭部を全力で平手打ちされた。
私は鼻を自分の膝に思いっきり打ち、鼻血がしばらく止まらなくなった。

こう色々書いてるとS君はとんでもないDVワガママモンスターなのだが、私の鬱の時期に関しては私も悪いので何とも言えない。

私は私でずっと死にたいと嘆き、何度もリストカットをした。
そりゃ一緒にいる彼氏からしたら辛いものがある。

当然喧嘩も絶えない。お互いに限界が来ていた。
S君の浮気疑惑もあったが、後から思えばもうそれは仕方ない。私には責められない。
お互いに追い詰められていたのだ。

2009年4月は東北に住んでいた祖父が亡くなり、お葬式へ。
東京に戻ってしばらくしてから、私とS君はようやく別れることになる。

それまで何度も別れ話になり、マンション3階のベランダから私のあらゆる荷物を外へ放り投げられたこともあった。
それでも別れずにいたのに、やっとだ。

別れ話を切り出したのはS君から。
鬱で共依存状態であった私は別れたくないと泣いて縋った。

そしたらS君は、「俺に嫌われたくないなら今すぐ別れろ」と言った。

その言葉に目が覚めた。
とっくに恋愛感情も何もなく、お互いに傷つけあってばかりで。
一緒にいるのはとっくに無理だったことに、この時やっと気づいた。

ごねていた私も自分の荷物をまとめ、実家に帰った。
それから私は三日三晩、何も食べられず一睡もできなかった。本当に。

初めての彼氏で、色々ありながらも四年付き合ったのだ。
憔悴しきっており、親からも心配された。
これが多分2009年5月頃のこと。
会社は祖父のお葬式が済んだ後に辞めていて、実家が経営する飲食店の手伝いをしていた。

三日三晩寝ず・食べずとも体は一応動いて、店には行っていた。
疲れたら寝れるかと思いきや寝れないし、心身ボロボロなのに動けるのは若さゆえだったと思う。

そして私は思った。このままではいけないと。

早くS君を忘れよう。そのためには何がいいか。

友達と遊ぶことだ!
S君のせいで殆ど友達と遊ぶことなく生活していたので、私は久しぶりに中学や高校の友達と遊びまくった。

めっっっっっちゃくちゃ楽しかった!!
みんな女友達だったのでガールズトークに花が咲き、みんな私のことを慰めてくれた。
本当にみんな優しくて救われた。

そうやって過ごし、一ヶ月もしないうちにS君への気持ちは綺麗に思い出へと変わった。

S君には本当に嫌な思いをさせられたし、でも一応楽しかった時もあったし、色んな経験をした。
こんなに面倒くさいS君と付き合ったおかげで、私は多分そこまで面倒くさい女にならなかった(と思う)。
今ではまぁ可愛いとこもあったかなと。
暴力は良くないけどね。頭からアップルティーかけられたこともあったし。
ただ、いくら私が独り身でも復縁だけは絶対にない。絶対に無理。

S君と別れてからしばらく経ち、私の乳ガンが発覚した当初、mixi経由でS君からメッセージが届いたことがある。
マイミクであったとかではないのだけど、きっと誰かから知らされたのであろう。
「治療大変だと思うけど頑張ってください」と。
S君のページを見ると、どうやら私が別れた後にヒッチハイクで日本のあっちこっちを行ったりしていたらしい。
私はそのメッセージに「ありがとう」とだけ返し、それ以降一切連絡は取っていない。

S君は大人になったのだろうか。
ワガママモンスターから脱したのだろうか。
脱していることを願うばかりだ。

20歳の頃からのことを書こうと思ったのに、S君との話ばかりになってしまった。
でも私の半生を書く上で欠かせない存在なので、許してください。

まだ2009年5月までしか進んでないや。
約12年分、いつ書き終わるのだろう?

次はどこから書こうかまだ決めていませんが、気長にお付き合いくださると幸いです。

それではまた次回。

生きる糧にさせていただきます。サポートのおかげでご飯が美味しい。