見出し画像

父ちゃんの想い・人生の中間地点にて

先日、仕事で外回りをしている途中、信号待ちをしている車の中からある光景を目にしました。
それは、一人のおじいさんが自分の家の前で、息子と思われる男性が車で出発するのを見送る姿だった。

全く知らない人たちの様子をボンヤリ見ていたのですが、車を見送るおじいさんの顔を見た瞬間、そのおじいさんを、なぜか自分自身と重ねてしまいました。


もちろん、私はまだまだ「おじいさん」の年齢ではない。子どもたちも小さいし、両親も元気です。
でも、そのおじいさんを、将来の自分自身であると認識しました。
頭は禿げて、残った髪も白髪しかない。身体は細く、でも立ち姿はピンとしている。だけど、息子(らしき人)を見送るその目は、とても寂しそうに見えた。

じっくりと考えたわけではなく、そのおじいさんの目を見た瞬間に、その目は私自身の目なんだと直感した。実際におじいさんが寂しい、悲しいと思っていたかどうかなんて分からない。分からないけど、その時に感じた私自身の寂しさは確かなものだった。明かな実感として存在した。

まだ小さな私の子どもたちも、いつか大人になり、自分自身の道を歩み出す。歳を取るだけの私は、身も心も弱くなり、また赤子のように、身の回りの世話を受けなくては生きていけなくなる。そして、たまに来る子どもたちの去り際を、遠い目をして見送ることになる(たぶん)。

今の私は、まだ元気な両親と、これから大人になる生命力溢れた子どもたちの間に存在しています。ヤジロベエの支点みたいな位置取りで。
そして、これから徐々に歳追う方向へ傾いていくのでしょう。

そんなこと考えた翌日、通勤中の車の中、ラジオから流れてきた歌を聴いて涙が出てしまいました。


歳だからかな。


歳を取ると、涙もろくなるものだと聞いていたけど、やっぱりそうなのかもしれない。涙もろい歳になったんだということ。涙もろくなるのは、人生の中間地点を過ぎて、終わりに向けて傾いているからなのだ。と、後付けの理由で、流れた涙と向き合ってみる。まあ、仕方ないよね、と納得してしまった私は、これからますます涙もろくなっていくのだと思いました。


傾いてるからな。


今後、涙が流れたら、そう考えることにします。
















サポートいただけたら、デスクワーク、子守、加齢で傷んできた腰の鍼灸治療費にあてたいと思います。