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「良知に致る言語」としてのジブリッシュ

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良知とは

良知とは、「先天的に人の心にそなわった理性知」のことを言います。
生まれながら持っている知能、知恵のことです。

王陽明はこの良知を致すことを伝える言葉として、致良知(ちりょうち)という言葉を残しました。元々備わっている良知を最大限に発揮するということです。

この致良知(ちりょうち)。一般的には「良知を致す(いたす)」という読み方、解釈が伝わっていますが、中江藤樹はこれを「良知に致る(いたる)」と読みました。

簡潔に解説すると「良知を致す(いたす)」だと良知と行動は別物という捉え方になりますが、「良知に致る(いたる)」の場合は、良知に至る結果、行動は自然と変わる。という捉え方になります。

中江藤樹はこうした「自然にはたらく心の働き」を大切にしていました。

何か考えて動くのでなく、気がついたときにはもう動いている状態。ゴミ拾いだったら、何か考えて拾おうとするのでなく、気がついたらさっとゴミを拾っている。良知に致ることができれば、意識する必要さえなく自然と行動に移っている。そんな捉え方です。

※致良知の解釈については、主に林田明大氏の文献等を参考にしています。

「藤樹学」の教えによえれば「明徳を明らかにすること(明明徳)」とは、
「心の本体である〈良知〉、つまり〈本当の私〉に気づき、その自覚を深め、〈本当の私〉を信じ切る」
ということです。

林田明大著『評伝・中江藤樹   日本精神の源流・日本陽明学の祖 』より
中江藤樹「紙本墨書致良知三大字」
文化遺産オンライン


なぜ、ジブリッシュで良知に致るのか?


ジブリッシュは陽明学そのもの


意味のない言葉を口に出すこと。口から出まかせに音を発することです。
一体これのどこが陽明学とつながるのかと、ほとんどの人が疑問に感じると思いますが、私からすると陽明学そのものなのです。

「先天的に人の心にそなわった理性知」が良知であるならば、それ以外の要素は「後天的に人の心に加えられたもの」です。赤ちゃんの頃の純粋無垢な心を覆い被さるように、思い込み、常識、私欲、ストレスなど、様々なものが周りについています。

実は、ジブリッシュを話すということは、この覆い被さっている余計なものを外すことができる側面があります。意味のない言葉を話すと、一瞬で雑念を消し去ることができます。逆にいうと、何も考えられなくなります。またジブリッシュを使うことでストレス(=抑圧感情)を解放することができます。

その瞬間というのは、思い込みも、私欲も、常識も、ストレスもない状態です。意味ゼロの言葉によって、無(ゼロ)の状態に強制的にシフトするのです。


破壊としてのジブリッシュ


創造の前には必ず破壊があります。
いい意味での「破壊をサポートする力」がジブリッシュにはあります。


ジブリッシュをすると効果覿面(てきめん)な人

  • 頭でっかちな人

  • 理屈でばかり考えがちな人

  • 論理的思考が染み込んでいる人

  • 思い込みが激しい人

  • 常識人間から抜け出せない人

  • 自分の殻を破れなくて困っている人 etc..

こういう要素が強い人ほどジブリッシュは効果的です。
思考優位な現代人では、かなりの割合の人が当てはまるはずです。

ジブリッシュを話すと、強制的に普段の思考パターンから離れられます。

しかし、最初からできない人も少なくありません。はじめは逆にストレスを感じたり、負担に思ったり、苦手な人も沢山います。

そういう状態だと、
いい意味で、今までの自分を壊さないとできません。

長年かけて築き上げてきた「自分」がある中で、意味のわからない、意味不明な、でたらめな言葉を発する。これはアイデンティティが強固であればあるほど難しく感じがちです。恥じらいやプライドが邪魔しているケースもあります。


しかし。
だからこそ、破壊的創造のプロセスが非常に重要です。

「あらゆる創造活動は、まずなによりも破壊活動である。」

パブロ・ピカソ Pablo Picasso 素描家 彫刻家 1881〜1973

人はあらゆる物や人に意味を見出そうとする。
これは我々の時代にはびこる病気だ。

パブロ・ピカソ Pablo Picasso 素描家 彫刻家 1881〜1973


ジブリッシュを話すことや、無意味に何かをすることは、強力な破壊活動です。常識は一切通用しません。戦略、計算、打算、論理、お金、権力、こうした一般社会で力を持つものの全てが無力化します。まったく役に立たなくなります。

しかし、ここが大切なポイントです。
その先に、自ずと大切なもの〈良知〉が現れてくるのです。


ジブリッシュで良知が顕現する

ジブリッシュのワークショップで、ストレス発散したり、感情解放したり、身体中の緊張をゆるめきったりして、いらないものを出したあとは、こんな声が聞こえてきます。

  • あたたかい気持ちになった

  • 心がおだやかになった

  • やさしい気持ちになった

  • 悩んでいたことがどうでもよくなった

  • 前向きになれた   etc…

様々な場で講座や研修をする中で、こうした場面を幾度となく目の当たりにしてきました。

ポイントは、私から「ポジティブになりましょう」等の気持ちに関する指針は一切出していない、ということです。

ただ、「こういう動作をしてみましょう」「こういうワークをしてみましょう」と指示を出していくだけ。

しかし、徹底的に解放して、出しまくっていくと

自然と、自分の心の内側にあるものが輝き出すのです。

こちらもあたたかい気持ちになる場面も多々あり、
私はこれぞ、良知に致る瞬間の一つだと感じています。


発するときの意識

しかし、ただジブリッシュを出すだけでいいのかというと、そうではありません。どういう場づくりの中で、どういう意識で発するかによって変わります。

「意味がないこと」だからこそ、どういう意味づけがなされているかによってジブリッシュの質は変わります。

例えば、表現力を身につけようと思って発するジブリッシュは「表現力を鍛える」という目的のために為されるため、それはトレーニングの一つになりがちです。

しかし、すべてが忘れ去られてしまうくらい没入できたり、涙を流すほど楽しく笑えたり、そういう場づくりの中でのジブリッシュは、より雑念が消え去り、より純粋な感覚になるサポートになります。

表面的には同じジブリッシュに映るかもしれませんが、
場づくりをする人、実際に音を発する人の意識によって
大きく変わってくるのです。

意識の話については、また改めて別の記事にしたいと思います。

では!




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