放浪 インド 2017 クンブメーラー

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I will go to Taiwan from the beginning of December to the end  January  middle of the month . I will stay in Japan until the beginning of December. There is two weeks to the holiday . of couse we can day trip

男が坂道を自転車に乗って登っている。15段変速の折りたたみ自転車だ。男が今 はやりのリサイクルショップというより、バッタ屋というような店で、つい最近手に入れた自転車だ。今日初めて
男は今まで自動車を交通手段にしていた。そんな生活だった。これからは時間もアル程度自由に使えるし、体力を付けるためにも自転車を探していた。車に積んでそこから移動できる事を考え折りたたみ自転車が良いかと思ってリサイクルショップなどで値段などをチェックしていた。郊外のバッタ屋でふと見かけた自転車だ。変速装置は必要ないと思っていたが値段と片山右京という名の知れたレーサーの名前の自転車なので、ここはいままでの自分絵のご褒美ということで奮発して買った自転車だ変速装置を楽しみながら久しぶりに乗る自転車で風をきる気持ちよさを感じていた。この坂は最近、隣に作られたトンネルがあるのだが、車だけしか入れない。自転車もほこおしゃもこの急な坂道を登る。坂を上る大変さよりも変速装置が使えるのでそれを楽しみながら漕いでいる。左右のグリップを回すことでギヤーが変わる。とても新鮮だった。男はフレームについているレバーにいちいちグリップから手を離して変速していたことを思い出していた。回転数と踏む力の関係に興味を示し、いろいろ計算をして確かめていた。男は大学に入るまでは自転車を利用していた。男が通っていた高校は20kmも離れていたが冬の日も雨の日も自転車で通っていた。小さいころは電車でも行けるのに夜の開ける前に家を出て分倍河原までクーラーボックスを荷台に積んで魚釣りをしに行ったこともあった。自分の思った通りに行ける、走るのが好きだった。自転車をバッタ屋で買うなどの金銭的な面も小さい頃から自分の体力と時間を使えるならお金を惜しんでいた。使わないようにしていた。
男が初めて乗った自転車はペダルとチェーンとタイヤがくっついていた。坂道ではペダルの回転が速くなり足をペダルから話して降りて行った。タイヤもチューブでなく全部ゴムだった。時代の移り変わりを感じていた。まだ、日本は貧しさが残っていた。活力はあった。男は大学に入ると自転車にはほとんど乗らなくなった。大学のときは鈴木のハスラーを、就職してからは、スバルのレオーネ4wdを乗っていた。男は就職しても体を動かしていたこの坂道も相当な坂だし、家からも相当な距離がある。自転車を楽しんでいた。今日は春休みの平日で高校生もいつもより部活に行くのかジャージ姿で坂道を自転車で上っている中には自転車を降りて自転車を押しながら登っている者もいる。男はグリップんのギヤーのうごきを確かめながら坂道を登っているいい買い物をしたと感じている。少し奮発して買った自転車だ。自分の今までのご褒美だ。自転車の事故も思い出している。坂道の交差点を止まらずに車にはねられた。空中をまっている景色を今でも覚えている。着地をしたら車のタイヤが目の前にあった。運転手が血相を変えてそばに寄ってきた。男は怒られると思った。しかし、運転手が大丈夫かと声をかけやさしくしてくれた。雨の日に坂道で滑りタイヤが側溝にはまりその反動でここでも空中に跳ね跳んだ。濡れた道を滑り台でを滑って行くように滑っていた。タイヤがほとんど90度に曲がっていた。ハンドルのフレームも曲がっていた。自転車を押しながら家に向かった。自転車が壊れてしまったことを母親に話すと母親が自分の体のことを心配してくれて、自転車を壊してしまったことを怒られなくて、不思議に感じていた。自転車だけでも危険なことに遭遇していた。中学の時には教師からも不実の石井といわれていた。男は幼稚園から頭を打ったりは腹を打ったりして気絶している。母親から今度気絶したらもう戻れなくなってしまうよとも言われた。それでも、小学校の廊下で友人とぶつかり気絶をした。母親が心配そうにしていたが、戻ってこれたことが男には不思議だった。その後も、男は妻子がいる年になっても頭を打って気絶をしている。気絶をしなくても、危険なめに何度も遭遇している。しかし、不思議に変わらぬ生活をしている。気絶で脳のは記憶力などダメージを失った所もあるが、DNAはいいものを持っているように思っている。
男は戦後10年生まれだ。1956年のうるう年に生まれた。小さい時にはまだ戦争の傷跡が回りに残っていた。河原の崖には防空壕が残っていたし、小学校の校庭からプレハブ校舎を作るために校庭を整備していたらはショルイダンが出てきたこともあった。学校も団塊の世代のためにプレハブ校舎がどんどん建っていた。校庭は曜日を決めて遊べる場所が決められていた。狭い校庭でナガウマが男は好きだった。工事中のプレハブ校舎に床からもぐりこんで遊んだりもした。蛍光ボールで暗くなっても手打ちの野球を細い路地でしたり、釘刺しをしたり、カクレンボや缶けりをした。新宿に連れて行ってもらうと白い服を着た傷痍軍人さんが義腕の片手で膝まづいたり、義足でアコーヂィオンを演奏して鍋に寄付を求めていた。子供心に国のために負傷して乞食のようなことしなければならないをしているのが哀れに思えた。この人たちがいて、このように施しを頼んでいるのが哀れだった。自分が新宿に出て、京王線がまだ甲州街道を踏切でよこぎっていたころだった。乞食がいたり、中学校の周りには目に見える朝鮮部落などがあったころの話だ。男は、自分の家がその人たちに比べると裕福なことに気が引けた。兵士たちの連合赤軍の植垣さんの生まれた環境に重なったところがあった。自分よりも年が5歳ぐらい下なのに同じ山仲間にもその本を読んでその部分に共感した友人も思い出す。
男は、自転車に乗りながら小さいころをやたらと思い出していた。男は今が人生の折り返し地点と考えていた。小さいころのやや貧しい生活。そして、今のやや裕福な生活。この60年で築いた生活の折り返し点がこれから始まる。あと半分生きる。時間的に60ねんではあり得そうにないけれど、密度を二倍にして後30年。どんな後半を生きていくのか。90歳までの計画。もしかしたら、120歳までもとも思っている。
男は4月に定年退職になる。今日、街に行くのも定年退職に関係がある。男の生活がまるっきり変化した。今までと比べ物にならないほど自分の時間がある。人生の前半のエピローグ。そして、折り返し点の始まりだプロローグ。自転車できる風はまだ冷たいが、日差しはキラキラとまぶしい。60歳というピークにたった。これから少しずつ下っていく。もちろん下るだけでなく登りもある。登ったり下ったりしながら海に戻る。今までの経験を土台に。今までは、ピークにたどり着くと次のピークが見えた。そして、そのピークを目指して登っていた。高みを目指したが登れないこともたくさんあった。それでも高みを目指した。男は少しづつ下ることを意識してこれから生きていこうと考えていた。自分の時間がある。お金もある程度はある。この環境を今までの経験や技術を生かせば、高みを目指すのと似たような人生の後半を降りていけると感じている。男は、人生の後半のプロローグをインドに決めた。
娘が住んでいるアメリカ西海岸に行って車かバイクでアメリカを旅をすることを考えていたがインドにした。インドにいるサドーに興味を示していた。アメリカの次はパタゴニアかブラジルでリオのカーニバルなどと、どこにするかと、ふとネットを見ると4月からクンブメーラーがあるのを知った。3年に一度しかないお祭りだ。それが来月から始まる。男は引き寄せられるように迷うことなく速効でインドに決めた。
そのために自転車で県庁に向かっている。県庁でパスポートを申請しに行く。男は大学の時に留年をした。寮に住んでいたので、留年が決まった時はそんなにショックではなかった。しかし、同期のものが卒業をしていってみんなが就職していくのを見ると寂しい思いをした。同期の者が後輩に就職のアドバイスをする講座があった。希望の就職先に行けるもの、そうでないもの、そして、就職できないもの、いろいろな人生がその講座にはあった。入学して、泊りがけのコンパをしたり、みんなと大学祭でお店を開いてたり、そのコンサートで池の中にはいったり、夏にキャンプにいったりしてのを思い出した。男は寮の先輩がいたので理Aのクラスのまとめ役のようなこともいてそんな思い出の計画をしたこともあった。その思い出も各ゼミが決まっていくと少しずつ少なくなった。疎遠になっていくのを感じた。みんなで騒いでいたのが、カップルができたりもしていた。ドラマや映画のような華やかなことはなかったけれど、思い出はいろいろあった。バイトもしたし、旅もしたし、コンパもしたし、そんな思い出がよみがえった。
留年が決まって男は、夜のバイトや四国までタコ部屋のようなところに行って出稼ぎもした。そのお金でオーストラリア2カ月と旅をした。地球を歩くもでていなく、チケットもようやっと秋葉原あたりで、正規でないものがあるらしいとのうわさが流れていてころだ。情報の少ない地方では、結局、正規のオープンチケットをオーストラリアで無難に買った。でも、そのオープンチケットのため、計画になかったフイリピンに行くことになった。オーストラリアから日本に戻ろうとしたときに、1カ月ぐらいならフイリッピンにトランジットで行けることを知ったからだ。そのフィリッピンの旅は、男に衝撃だった。特に、マニラからセブ島に船で行った時の、港に船が着こうとすると少年が泳いできて、船から白人がお金を投げて、それを潜って手にして、コインを集める光景が、まるで映画そのものだった。それ以外でも、危険ぎりぎりのフイリッピンでの綱渡りのような旅行だった。
その旅行は時間を気にしない旅だった。そして、また、今、時間を気にしないで旅ができる。お盆や、年末年始の時間を見ながらではない旅ができる。そのために、パスポートの書き換えで県庁に向かっている。カメラの木村やで撮った写真だ。男は仕事で証明書の写真を撮ることもあったが、ここでも奮発してこれから10年お世話になるパスポートの写真にした。パスポートは大学の時から3冊目か。インドにも2冊目のパスポートで行った。東京に住んでいる父親にインドの大使館に行ってビザをとってもらった。その時は、父親が定年退職をして間もないころだった。初めてのオーストラリアには自分で大使館に行ってビザをもらった。今回は自分でビザを取ることになる。そのとこと比べるとビザはむずかしくなっている。写真もインドは厳しいようだ。インドに初めに行った時はバナラシに行ったさどーやお釜の集団、大道芸人など不思議な人びとにあった。特にサドーは男をひきつけた。火葬場んp近くをうろつき、火葬場の灰を体に塗って歩いていた。時々、燃え残った体の肉も食べるらし。どこまでが本当かわからないが、そのサドーの目がそのことをみとめていた。遭ったのはほんの一瞬だた、サドーを追いかけ跡を追おうとしたがもうみつけられなかった。男の脳裏から消えることはなかった。男の旅は欧米でクライミング道具満載で、飛行機に乗る時は、体中にカラビナなどを身につけ、ぷらブーツを履いての搭乗だった。一度、ハーケンを持ちこもうとしたら、出発の間際に搭乗を拒否されて、ゲートから普通のの通り道でないところを通って航空会社にハーケンを別に引き受けてもらうこともあった。クライミング中心の旅。もうひとつは、名っぷサックだけでの気ままな東南アジアの旅があった。犯罪に巻き込まれそうな危険なケイケインをしていた。ギリギリのところで日本にもどってきていた。
三年に一度にサドーが織りなす不思議な大きなお祭りだ。それが2016年にウジャインにあることを見つけた。サドーがどんな人なのか、ヒンズー教がどんな宗教なのかもわからなかったが4月から一カ月にわたってお祭りがあることを知った。パスポートも7月で切れる。新しい門出だ。人生の折り返しの最初の旅をインドに決めた。インドはビザの申請が大変なのを知った。ビザの写真と。カメラの木村やで撮った。後で、国際免許の写真もすることにしたら、メガネがやや光っていたのでおまけで、メガネありとなしの写真のデータをくれた。サービスをしてくれた。そんなことも男にはとてもうれしかった。県庁でいつどこで撮った写真かを聞かれたがカメラの木村やだと答えるといちゃもんもつけずに受け付けてくれた。アメリカに行くときに国際運転免許所をとるときに自分で印刷をした写真を持っていったら受付係だけでなく、上主まできてもめたことがあった。なんとか、免許はもらえたが、こんどはパスポート、ビザ、免許と3回もあるので、無難な道を選んだ。カメラの木村やのイン朗をみせるとスムーズに事が運んだ。
今度は税務署におとかは向かった。労働金庫の人とはなしをしている。男が義理の父の借金の返済をしていた。この退職で返済が切れるものと思っていたが、12月までだった。この際に片をつけてしまおうといろいろ手続きを自分でしていた。抵当権の抹消などもしていた。「ふつうは司法書士などに頼むのあけれど、どうします。」と聞かれた。男はとりあえず書類を受け取り、自分でできるかを調べてみることにした。「ふつうは、代理人が決まるまで、書類を預かるので、大切に保管してください。」と念を押して男に渡した。男は、時間があるし、面白そうなので、自分で末梢の手筒気をすることにした。男は、退職金もどのように使うかも決めていた。財形の話もしたが、聞くだけで興味を示さなかった。生命保険などを男は興味を示さなかった。株などに回して自分で運用する方が効率が良かった。銀行でしか株の取引ができないころから株をしていた。名義変更なども、休みを取って自分でしていた。それなりに、そんはしていなかった。
公務員なので事務員が、税金の手続きをしてくれている。そのような税金に意識するのは、退職が近くになってきてからだ。男がどこまで知っているかは知らないが、男の行動力、躊躇しない態度を感心した。
税務署に初めて入る建物だ。受付では何人かの人がいた。担当の人のアドバイスを受けながら相談に乗っていた。自分の担当外の質問にも丁寧に答えていた。男よりずーと年をとった人で理解しにくそうな人にも親切に根気強く対応していた。パスポートの申請でも、その時にはスムーズに手続きが進み気付かなかったが、パスポートの申請でも見本があり受付のカウンターも見つけやすかった。受付の人も書類のチェックも素早く愛そうが良かった。愛そうの良い振る舞いで決めのこまやかさがうかがえた。気付かされた。日頃、税金を取られるマイナスのイメージなくそうと書類の準備をする机がブースにまでなっていた。相談できる時間外であったが受付をしてくれて、書類の不備も簡単に処理してくれた。男はインドの警察や公務員の態度を思い出した。

足取り軽く出ていく。フットワークの軽さに女は魅力を感じながら見送った。おtpkpから登記の書類が足りなくて税務署から電話が掛かってきた。女は初めは代理人に田野辺場良かったのにと思った。話を聞いていた。税務署と直に電話でやり取りを
 その必要な書類を渡したか確認してほしいとのことであった。必要な書類は全て渡したのでこちらには不備がないので男の言うとおり直接、税務署とやり取りをしたほうが面倒な意図思い電話をすることにした。税務署のやりとりでも結局、昔のことなので度の書類をほしいのかがわからなかった。そのことを電話で男に伝えた。すると、男がすぐに渡された書類を持ってくるので確認してほしいとのへんじがきた。男の状況の判断と決断の判断に感心した。また、提出した書類のコピーをしていることも感心した。

杏奈にIPADを失くしたことを連絡した。いたずらされない方法を聞いた。また、台湾のチケットを頼んだ。12月1日から2ヵ月ぐらいを頼んだ。

男が行政書士に頼まないで自分っでやってみるというので少々心配した。再度確認をした。経験だし、時間もいっぱいあるだろうからといいながら書類を受け取った。女は男の軽列記を調べていた。しないの中学校で数学の教師をしていた。島の学校に2年、支援学校に5年勤めて、今年の三月に退職。少々、不思議な経歴だ。借金も12月で返済の予定だったが、3月で返済できるように変更にした。退職金も、全く、財形に運用せず自分で運用するらしい。想像できた。とても楽しそうにこれからの道を歩いていこうとしている。男を羨ましく思えた。体力もあり行動力もある。書類の不備は税務署が書類の選択をミスしたことがわかった。男が税務署と銀行の其の状況を判断して、スムーズに解決していた。男が書類を直に持っていくことになた。今日中に、手続きを済ませることになる。男のこれからの生き方を知りたいと思った。フットワーク軽く出ていく男の後ろ姿に頭を下げていた。男も女の事務の処理の仕方に興味を惹かれていた。事務以外に興味を引く会話をしていた。運転免許諸をコピーするだけでなく、免許諸を五回もふんしつしていることにも目をやっていた。会話の中で何気なく話した。銀行の仕事は事務的なことが多くてあまり魅力的に思っていなかった男には、女の話のやり取りをしながらお客の人生を観察して仕事を進めていく態度に関心をした。数少ない情報からお客の人生を観察している女の仕事への態度、まだ、20代だろうに、仕事に追われることなく、仕事を楽しみ、自分のキャリアにしていこうとする、仕事から自分の人生にいかしていこうとする態度に感心した。仕事を楽しんでいるようだった。女の休日の仕方や趣味を聞いてみたかった。その着方に興味を示し後にした。少ない出会いだったが、二人ともお互いにいその生き方に魅力を感じた。それぞれの生活を歩んでいった。男は銀行から預金をおろしていた。女は上司から同席をするかのサインを送られたが、自分でやっていくサインをだした。自分だけのがやりやすいのを知っていた。

自転車を車から降ろして県庁に向かった。県庁は、八時三十分に受け付け開始。すぐにパスポートがもらえた。車に戻り免許センターに向かった。国際免許を申請するためだ。どのように写真をとったかを聞かれた。カメラの木村やを出すとすぐに、受付をしてもらえた。免許もその場で発行してもらえた。今度は税務署だ。登記の手続きがすべて完了した。考えた通りの筋書き通りに事が運んだ。
車を駐車場からおろした。飲み会があるときにとめる駐車場だ。きょうは組合の飲み会がある。理科系には興味を示していたが、文化系には仕方なく受験のために勉強をしていた。学園闘争が激しくなったのは中学の時であった。学生がシュプレキコールをあげてジグザグにデモをしているのを塾にあるビルの屋上から眺めていた。機動隊とデモ隊の緊張感がビルの屋上にまで届いていた。塾の経営者であり、英語の先生であるひとは、あごひげを伸ばし、髪の毛も伸ばしていた。東大を出て塾を開いて間もない人だった。左の方のひとだった。金持ちの息子や娘がならいにきていた。下のクラス。夏休み。空手の先生。音楽の先生。ドラム。タバコ。教授の娘。自転車。島のロープ。
中学三年に勉強しだした。受験戦争。周りにあった。戦後のベビーブーム段階の世代。大学に入った。受験戦争に勝った人がいろいろ訴えてデモをしている。それを取り囲むように機動隊や警察がいる。学歴を感じてみていた。私立の制服を着てマンモス校に入っていく自分は許せなかった。何のために勉強するのかとか、どんな仕事をしたいのかより、制服がいやだった。かといって、工業高校に入って、道が細くなるのもいやだった。がんばれば、都立の普通かで私服で通いたかった。がんばれば入れるかもしれないと感じていたが。勉強の方法に自信がなかった。塾に行くことに抵抗が」あったが、選択をした。」周りには、塾に行けない友達もいた。自分だけで勉強ができなかった。どのようになにをしたらいいのかわからなかった。がむしゃらに勉強をした。受験戦争に足を入れた。目の前のデモ隊と機動隊の緊張を眺めていた。受験戦争に勝った人たちがシステムに反対して、学歴社会についていかなかった人が守っているそんな社会が不思議だった。ウイゲバとか連合赤軍事件が起こっていた。淀校ハイジャック事件では友達の父親がその飛行機に乗っていた。自分らは、中学二年の時に中学校の屋根裏に秘密基地を作った基地が三年になったときに見つかり、親が呼び出されていた。しばらく親が学校に呼び出されることがなくほっとしていたころに昔のことで呼び出された。
戦争がいやだった。社会の授業でどこかの国が日本を攻めてきたらどうするかと聞かれた。すぐに逃げると答えた。普段はちゃかしたりもしないで、自分の世界に入っているのになぜか逃げると発言をした。みんなが、自分のほうを振り返ってみているのに気がついた。無人島に逃げるといったりした。男の本当の夢は無人島にすむことだったのかもしれない。小学六年の卒業文集にも将来の職業をりょうしとした。漁師と感じに書き直されて漁師でない猟師でもないりょうしだといってなおしてもらったのを覚えている。
受験戦争はながかった。中学3年の時から職業につくまで受験戦争のようなものでった。おもしろいと思えないようなことを勉強して、暗記を繰り返していた。暗記が苦手でだった。たぶん、ブランコで空中帰りをして頭から落ちた。いきもできなくなった。そのときに脳細胞が壊れてしまった。いろいろ考えて工夫をするのが好きだった。いろいろな方法で記憶の弱点をごまかしていた。どうしようもなく無理矢理覚えたこともあった。しかし、相当なエネルギーと時間がかかった。
政治に興味を示したのは、屋上でみたデモがきっかけだった。瀬戸内弱小の18の墓標の連合赤軍だった。内ゲバが理解できなかった。寮に入った。部落解放同盟や中核に系統している人が若干すんでいた。鉄パイプも倉庫にあた。同室の先輩が10年以上も住んでいた。生協の理事をしている。生協にも共産党系とそうでないのがある。寮は四回だけれどその四回からジャンプができるほど、雪が降る時があった。とびおりたはいいがもどるほうが大変だった。
寮にすみ、自治に参加しながら多少の影響を受けながら大学生活を過ごした。体育会の事務局にも参加した。学生かとの交渉をして、池の前で学生集会でも演説をした。マイクをもってなぜかサングラスをして。組合の必要性を感じて仕事をしても組合にはいっていた。すぐに入った。校長に入らなくてもいいようなことをいわれたがすぐにはいった。中核にも興味を持ち集会に参加した。教師を首になった若い青年が演説をしていた。子供が生まれて間もない頃だった。お金だけを払っていた。総合的な学習の時間が導入されたときに
少し動いたときがあったが結局導入された。組合の数も少なくなっていた。年金と同じように破綻されていくのを感じた。ぬるま湯のかえるがゆであがるのとにている。電子力も、戦争も同じように感じた。抜け出さなければならないのはわかるが流されていく。世の中は全く変わっていない。職業も、不思議な職業が残っている。神主や、歌舞伎や、宮大工、職人や、。
年金や原子力や戦争。にている人が組合にはいた。にたような考えをもっている人とはなしをして、ほっとした。活動はしないが、いいわけができた。
自由と平等を天秤にかけると自由だった。共産党のような平等ではなかった。組合というと共産党となるのがいやだった。それは、学生の時の生協と同じだった
小さいときに近くにいた貧しい環境に生活している人々。富山は、関東よりも関西の風土がある。近い。部落の問題も、身近にある。
男は町の郊外に住むようになった。娘夫婦がたてた家にすむようになった。電話をしている。着信歴がよるの十時になっている。時間もワンギリダ。いつものことだ。娘には、二歳になる子供がいる。活発な子で声も大きい。娘は頼もしく思っているがその声が近所の人には大木過ぎらしい。いつものように誤りの電話をかけr。アパートは、ロフトもありしゃれた作りで職場にも近い。トンネルが完成すればさらに近くなる。アパートの家賃を払うより、一戸建ての家を買ってローンを払うことにした。車を4代とめることができる。工夫をすればもっととめられる。庭もあり大きな家だ。娘は父と母の同居を考え家を決めた。おとこは、実の父と母のいる東京に戻らずに、大学を卒業すると妻の実家のある町で働き、結婚をして、長男なのに、婿養子とし結婚した。義理の父も婿養子だ、隣村からやってきた。こだわりはなかった。婿になっても生き方は変えなかった。農家の経験も興味があった。無人島に近い。経験したことのないことへの好奇心のが強かった。農村の葬式や共同の農作業にも興味が引かれた。年末年始は山にいいていいた。娘は習い事をしていた。ピアノと習字だ。土曜日曜は母と習い事に出かけた。平日は、祖父母といることが多かった。妻も教師をしていた。子供が自分でかぎをあけて誰もいない家に入っていくのは、いやだった。子供は店もしていたので大勢の人に囲まれて育った。たくさんお刺激を受けていた。わがままもできなかった。周りの人から褒められて過ごした。煩わしいこともあったが自然のこと当たり前のこととして、うまく刺激を受けて育った。


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