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丁寧な暮らしという幻想と生活を全うするということ

「丁寧な暮らし」という名のライフスタイルが流行ってから幾ばくかの時間が経ちました。
Instagram上では「#丁寧な暮らし」と検索すれば、盛りに盛られ映えに映えた綺麗な写真で溢れ返っています。気にしなければ良いのですが、どうも気になるわけです。
洋服にしろ、料理にしろ、ペットにしろ、家庭菜園にしろ、生活の中にあるものが写真を撮られるために存在しているかのようで、実態以上に綺麗に見せられているようで。
かくいう自分も、綺麗な写真を撮ろうとしてしまいます。

まあいいのです。
他人のことはさておき、偉そうに「生活論」と名乗ったnoteですが、書きたいことは日常生活の中に見出した気づきや発見です。
見方によっては、日記的にもエッセイ的にも、あるいは個人的な研究にも捉えられるかもしれません。PV数もフォロワー数も多くないですが、10年後の自分に繋がるものがあれば本望と言ったくらいのものです。
誰かに物申しているわけではなく、自分に向けて書いているものですので、ご容赦ください。
そんな一般人のヘンテコな研究でも、ひとりでも何か伝わるものがあったなら幸いです。誰にも読まれないこととひとりでも読んでくださる方いるのでは、天と地の差がありますから、どうぞ読んでやってください。


さて前置きはこれくらいして、本題ですが、丁寧な暮らしとは一体なんでしょうか。
問いが大きいですね。暮らしと生活はほぼ同義ですので、丁寧な生活とも言えます。

まず生活とは、「生存して活動すること、生きながらえること」「世の中で暮らしてゆくこと」である、とあります。そのままです。
それでは、丁寧とは、「細かなところまで気を配り、入念にすること、さま」「言動が礼儀正しく、配慮が行き届いていること、さま」とあります。なるほど。前者が意味としては良さそうです。
そうすると、「丁寧な暮らし」とは、「細かなところまで気を配り、入念にして世の中で暮らしてゆくこと」ということです。いまいちイメージとは異なるでしょうか。

でも文字にすればそんなもので、「丁寧な暮らし」を文字だけで伝えることは不可能に等しく、写真と併せて語られるものなんだと思います。

いわゆる「丁寧な暮らし」とは、SNSの発達とともに自身の生活スタイルまでも発信する人が増えた結果生まれた幻想なのではないかと。
こんな生活をしたい、こんな家に住みたい、こんな部屋にしたい、人の欲望に想像も加わって膨れた幻想が、「いわゆる丁寧な暮らし」なのではないかと思います。

ただ、ここで書きたいのは「丁寧な暮らし」の善悪ではなく、「丁寧な暮らし」に対する自分なりの解釈です。巷を賑わす幻想ではなく。
先ほど、「丁寧な暮らし」とは、「細かなところまで気を配り、入念にして世の中で暮らしてゆくこと」と書きました。

わかりやすく自分なりの解釈を記すと、隅々まで掃除をする、ご飯を残さずに食べ切る、ゴミを多く出さない、お気に入りの服を着る、寝心地良いベッドで寝る、そんなことと言うか、まあそんなことだと考えています。
自分自身が、居心地良く生きられる素地を整えることが、「丁寧な暮らし」なのではないかと思います。
特別に何かするというよりも、普通を全うするということです。

そもそも生活あるいは暮らしは、他人に見せるものではなく、他人に見せても仕方のないものなんだと思っています。それに、他人の生活を見て憧れるなんて健康ではないのかもしれません。とはいえ、隣の芝生は青く見えますから、仕方がないことなのかもしれませんが。
他人に見せるために作られた生活は、最早生活とは言えません。それは一種のコンテンツになります。他人に見せるためではなく、自身が居心地良く生きられるように整えること、生活を全うするということです。

少し自分のことを書くと、毎朝豆から挽いて珈琲を淹れますし、自分で作ったケーキを珈琲といっしょに愉しみますし、朝晩は自炊しますし、毎日洗濯を回しますし、花を花瓶に挿しますし、暇があればジンジャーエールやハンバーガーやピザだって作ります。側から見ると、「丁寧な暮らし」っぽいかもしれません。
一方で、サイゼリヤでも富士そばでもご飯を食べますし、夕飯時はテレビを観ますし、シーツは毎日洗いませんし、掃除も毎日しません。文字ならギリギリ語れますが、写真は撮れない部分もあります。そちらの方が大半です。

そうは言っても、生活の一部を写真で切り取ることはあります。ただそれらは、他人に見せるためではなく、居心地良く生きられるように整え、自分を愉しませるためです。ベクトルが自分に向いているか他人に向いているかでは全く意味合いが異なります。

長々と書いてきましたが、纏めます。
個人的な意見としては、いわゆる「丁寧な暮らし」とは人が作り出した幻想なのかもしれないということ。
その上で「丁寧な暮らし」とは、自分自身が、居心地良く生きられる素地を整えること。
生活においてのベクトルは自分に向けて、特別に何かするということではなく、普通を全うするということが、よりよく生きる術でもあると思うのです。


生活が蔑ろにされないまでも、仕事や学業に重きが置かれていた時代に比べると、少しずつ生活を見直されるようになりました。
個人的には、生活を何より大事にしたいと考えています。生命活動ですから。生きるための素地であり、基盤であり、あるいは娯楽でもあります。仕事も学業も生活の一部なのしれません。
だから、10年後の自分に何か繋がればくらいの気持ちで自分なりの「生活論」を書き記していきたいのです。

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