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1995

14
一生に一度の大学受験なる体験
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#受験

«1995» (14)

後日譚の続き。 上智大学の二次試験で奇妙な圧迫面接を受けた理由は長く謎だった。 別の教授に後日確かめたこともあるのだが、 「入学前の面接でフランス語で質問するなんて自分はやらないし、聞いたこともない」と。それはそうだろう。 入学後、田中先生本人に 「面接でいじめられた」と訴えたこともあるのだが、 「いじめてなんていませんよ」と強く否定された。 「私はいじめの意思がなかったのだからいじめは存在しない」という言い分が、典型的なパワハラの思考だということは指摘しておかねばなるま

«1995» (13)

僕が上智大学に行くと決めて暫くした頃、高校の保護者会で、西條(仮名)という同級生のご母堂が、僕の母に聞こえるような声で 「普通慶応受かったら慶応行くわよねぇ」 とおっしゃっていたという。 よその子の進学先を批評なさるのは勝手といえば勝手だけれど、手前の倅は受けた大学が早々に全滅し、更には翌年も全滅、すなわち二浪の憂き目に遭うのであった…… 僕の母校には、妙なプライドで妙なマウンティングを試みる親を時々見かけたものだが、少なくとも自分の息子が僕と同じ大学に受からなければ、プラ

«1995» (11)

近年、受験の合格発表がスマホで完結することを知ったけれど、平成7年当時、携帯電話は通話しかできず、かつ誰もが持つレベルには至っていなかった。 パソコンにしても、Windows95の登場はこの年の秋を待たねばならず、家庭用インターネットは、ごく一部の人が電話回線から低速で接続して使うもので、大学側もウェブで発表などしていなかった。合格者のリストは受験者の自宅に郵送されるけれど、当日に結果を知りたければ大学に見に行くほかなかった。 大学受験がほんの少し前の出来事のように思う一

«1995» (10)

上智大学の面接を終えた後、記憶がやや曖昧ながら、慶応大学法学部の二次面接と、同大学の商学部を受験している。   慶応の面接は、個室ではなく大きなホールか体育館のような場所をパーティションで区切っていた。 上智と同様に2対1、面接官は2人とも男性だった。不思議なことに、上智の面接は克明に覚えているのに、この面接での出来事は殆ど覚えていない。 ただ、自分の経験を踏まえた意見や考えを述べる場面で、何度かフランスの事例を引き合いに出したところ、面接官から 「キミはフランスのことを言

«1995» (9)

田中先生は書類をめくると、 「あっ、水野クンは法学部をふたつ受けているのね」 大学の内部資料でお見通しのようだ。 そして続けざま 「それなら水野クンは、法学部に受かったらこんなところには来ないでしょー?」 とのたまった。 は? 何言ってんのこのオバハン? 僕は呆気にとられていた。 フランス語の勉強を続けたいと思って、行きたくもない予備校にも通って、今日ここまでたどり着いたというのに。 そもそも、これからフランス語を習う学科の面接でフランス語を話せというのもすこぶる奇怪

«1995» (6)

上智大学外国語学部の二次試験は、平成7年2月15日に行われた。 選考は終日にわたり、午前中が小論文とディクテーション、午後に面接だった。 ここまで覚えているのは、入学から間もない時期に別のエッセイに書き留めていたからで、記録しておくのは大切なのだなと今更ながらに思いもする。 試験前の教室に着くと、女性の姿が圧倒的に多く、取り残された想いがする。というよりも、小学校から12年間男子校で育ってきた僕にとって、同年代の女性がこれだけ同じ教室にいて馴染めるはずもありはしまい。 気持

«1995» (5)

外国語学部の一次試験の合格発表は、同じく上智大学を受験しに来ていた級友たちと一緒に見に行った。 国際関係法学科の試験終了が16時前、発表が17時だったので、時間を持て余し、お腹が空いているわけでもないのに食堂で五目焼きそばを食べた。妙に細かいことを記憶しているのは、自分でも不思議だ。 時間が来て掲示板を見に行くと、果たして僕の受験番号があった。 「わ!やった!」 と無意識に大声を出したのを覚えている。なにせ、日本史が難しかったから、受かるとは思っていなかったのだ。 一緒

«1995» (4)

上智大学の受験は、フランス語とドイツ語の試験だけ初日にあった。寒いけれど、雲のない快晴の青空だったのを覚えている。 僕は外国語学部フランス語学科と、法学部法律学科、法学部国際関係法学科の3学科に出願していた。 そういえば、今となっては記憶が曖昧なのだが、英語選択の人は学科ごとに英語の試験があったのだろうか。そうなのだとしたら、フランス語受験はいささかいびつ、即ち、旨くヤマが当たれば出願したすべての学科で好成績となるし、外せばすべての学科の合格の可能性が一気に下がってしまう。

«1995» (3)

高校のカリキュラムは生徒の志望に沿って選べるようになっていて、僕は文系3科目(国語、日本史、フランス語)に絞って、苦手の理数系からは早々に逃げおおせていた。 高3ではフランス語の授業が週11時間もあって、ここで叩き込まれた語彙や表現は、受験勉強の範疇に留まらない幅と厚みがあり、今なお得がたい財産になっている。 そしてフランス語を除けば、授業体系が受験シフトなのに、教える側が大学受験のことをまるで考えていないというのも、わが母校の特徴だったかもしれない。授業がつまらないだけ

«1995» (2)

僕が上智大学を志望した理由は、フランス語だった。 通っていた学校は小中高が連なっていたけれど大学はなくて、いわゆる受験校でもあった。フランス人の宣教師がつくったミッションスクールで、彼らはキリスト教の布教のほか、自国のミッションも帯びていた。 即ち、文化で世界を侵略するという同国の遠大な戦略の中に語学の教育も含まれていて、フランス語教育がカリキュラムにあるのだった。我々の多くが、パリを特別な都市だと思ったり、彼の国のワインや食事を別格だと感じたりするのは、彼らの文化的侵略に