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『ジャーナル・リュミエール』創刊準備号「巻頭言」「ゴダールの世代」(抜粋)

巻頭言

映像の海の羅針盤として

『ジャーナル・リュミエール』創刊準備号に寄せて 

沖鳥灯

 一九九〇年代末から二〇〇〇年代初頭の私は、アテネ・フランセ文化センター、国立近代美術館付属フィルムセンター(京橋)、新文芸座、ACT・SEIGEI‐THEATER、新宿武蔵野館、新宿昭和館、テアトル新宿、法政大学学生会館、東京日仏学院、三百人劇場、草月ホール、亀有名画座、自由が丘武蔵野館、中野武蔵野ホール、BOX東中野、ラピュタ阿佐ヶ谷、アールコリン、大隈記念講堂小講堂、早稲田松竹、ACTミニシアター、シネ・ヴィヴァン・六本木、俳優座トーキーナイト、アップリンク・ファクトリー、シネマライズ、ユーロスペース、シネセゾン渋谷、シネ・アミューズ イースト/ウエスト、パンテオン渋谷、三軒茶屋シネマ、TOLLYWOOD、銀座シネパトス、シネスイッチ銀座、シャンテ・シネ、大井武蔵野館、キネカ大森、川崎国際、横浜オスカー、横浜日劇などで開演前の座席に深々と腰かけ、薄暗い照明の下、ボロボロの文庫本を読みふける凡庸な貧乏学生のひとりだった。

 映像とテクストの往還。映画と本の対話のほかは日常的な会話を控え、沈黙の生活を続けた。端的に絶望の淵にいた。が、いま振り返ればなんと魅惑的な日々であったろう。映像とテクストの邂逅は、映画評論の淀川長治、蓮實重彦、四方田犬彦、ジル・ドゥルーズから小説のマヌエル・プイグ、阿部和重、中原昌也という変遷を辿った。映画と本に青春のすべてを燃やした。その後ご多分にもれずひとりの凡庸な映画青年は大人の階段を踏み外し、人生の挫折を味わった。帰郷し、二十年の時が流れた。ひょんなことから映画誌を創刊することになった。

 昭和天皇と同じ誕生日のフランス文学者で映画評論家の蓮實重彦責任編集『季刊リュミエール』(筑摩書房)は一九八五年秋に創刊された。本誌は『季刊リュミエール』の後塵を拝し、映画館やカフェで気軽に読める「映画新聞」を目指す。

 蓮實は「趣味の良さ」を演出するタイプの映画評論家だろう。対して中原昌也は「悪趣味」を掲げて一九九〇年代に蓮實のカウンターたらんとした。二〇〇〇年以降、映画は教養映画と大衆映画に二分された。そして近年のネット配信サービスにより映画は新時代へ突入した。

 本誌は映像氾濫の時勢において「リュミエールからアンダーグラウンドまで」と宣誓しよう。映画の起源「光」のリュミエールと地下劇場のアンダーグラウンドを衝突させること。そもそも映画(シネマトグラフ)の誕生は、パリはグラン・キャフェの地下「インドの間」で「リュミエール工場の出口」「列車の到着」「水をかけられた撒水夫」などが一般上映されたことから始まった。一八九五年十二月二十八日のことだ。リュミエール兄弟(兄オーギュスト一八六二─一九五四、弟ルイ一八六四─一九四八)はピカソ、マネ、ルノワール、プルースト、バタイユ、ジョイス、ウルフ、ヘミングウェイ、スタイン、カフカ、フロイト、アインシュタイン、マルクス、ニーチェ、ウィトゲンシュタイン、夏目漱石、志賀直哉、岡本太郎らと同時代人だ。新生芸術の黎明期と古典芸術の爛熟期。

 私は名古屋大学映画研究会(一九九四─一九九七)、イメージフォーラム付属映像研究所(一九九七─一九九八)、日本大学法学部映画研究会(一九九九─二〇〇三)に所属していた。PFFやイメージフォーラム・フェスティバルに憧れて自主映画・個人映画を制作した。主だった受賞歴は皆無であるが石井聰亙、黒沢清、塚本晋也らの自主映画を始め、無数の学生映画を鑑賞した。それは出身地の愛知と転居先の東京に留まらず京都にまで及んだ。古典的名画からインディペンデント映画までを包含すること。反権威・超時代の映画鑑賞を同時的に行うこと。本誌は読者に無視される覚悟をもって映像の大海へと錨を揚げる。

 二〇二二年は「映画最悪年」として語り継がれるだろう。青山真治、ジャン=リュック・ゴダール、大森一樹、ジャン=マリー・ストローブ、雀洋一、吉田喜重らが亡くなったのだから。危機感を抱いた私は以前より興味を持っていた関西と沖縄の映画好きの学生に共同で映画誌を作らないかと打診した。三人は快諾してくれた。だが映画誌を作るのは弊サークルの文芸同人誌とは勝手が違う。慎重な準備期間が必要と考えた。本誌は創刊準備号として東海・関西・沖縄エリアの小グループで二〇二三年九月刊行(イラストレーターは関東甲信越エリア)。運営が軌道に乗れば寄稿者と販路を拡大方針である。

 『季刊リュミエール』創刊号の特集は「73年の世代 ヴェンダース エリセ シュミット イーストウッド」。ジョン・フォードが亡くなった一九七三年に頭角を現した映画作家たちを取り上げた。彼らは一九五九年パリのヌーヴェル・ヴァーグの作家たちのように「一つの目的を共有しつつ結成されたグループではない。スイスとか、ギリシャとか、スペインとか、これまでの映画産業の進展に多くの貢献を示したとはとても思えない土地で、まったく散発的に、しかもおのれの試みの未来を深く確信することもなく起こった孤独な作業がこの世代を決定づけている」と四十九歳の蓮實は述べた。

 本誌メンバーの居住地である、愛知、京都、沖縄はスイス、ギリシャ、スペインのような映画的に辺境の場所とは言い難いのかもしれない。だがツイッター上の希薄なつながりでおよそ従来の「同人」とは異なるメンバーで構成された「一つの目的を共有しつつ結成されたグループではない」同人誌とは「73年の世代」のような「散発的」で「孤独な作業」を余儀なくされるものだろう。

 その世代から五十年を隔てた二〇二三年。本誌は「ゴダールの世代」を小特集する。巨匠ゴダールの影響を受けた映画監督としてモーリス・ピアラ、青山真治、黒沢清、北野武を論じる。また京都おもちゃ映画ミュージアム館長のインタビューを掲載。次号からも東西、古今、硬軟、性差を問わず自由な映画鑑賞を編集方針としたい。

 映画と自己を重ね合わせることは両者の転落をもたらす。だが融合による破裂の行為こそが「時代閉塞の現状」(石川琢木)を打ち破る力ではないか。映画は「鏡=脳髄の遮蔽幕=イマージュ」である。ナルシシズムの突破は鏡に亀裂を生じさせることだ。まず鏡へ自己投影し、対象分析をほどこし、まなざしの熱で自己とフィルムを灰燼に帰すこと。映画の内的焼尽こそ忘我で社会を開く道であろう。本誌は映画を焼き尽くすボーダレスな羅針盤でありたい。そのためには暗闇の光を見つめ、映像の星座と自己の倫理を照らし合わせなければならない。

 なお創刊号は二〇二四年九月の文学フリマ大阪で初売りの計画である。今後ともよろしくお願い申し上げる。

人間と映画の神的暴力──ゴダール、北野武あるいは大杉漣
                                            沖鳥灯
 
映画は人生である。人生の中に映画があったり、映画が人生を描いたりするのではない。人生が、映画なのである。
(蓮實重彦『ゴダール革命』、ちくま学芸文庫、三七頁) 
 
映画は人生だという問題を共有する映画作家の撮る映画を前にして、ゴダールは、ただひとこと、これは映画だとつぶやく。これは批評家時代から今日まで変わることのない一貫した姿勢だといってよい。
(前掲書、三九‐四〇頁) 
 
 
 
1 映画史の符牒
 両者の隔てる絶対的に区分される光景を提示する試みの前提として、ジャン=リュック・ゴダール『勝手にしやがれ』(一九六〇)と北野武『その男、凶暴につき』(一九八九)は、法と正義の関係を暴力によって批判的にフィルムで定着させた。
 両作は戦後の法治国家でブルジョワが急速に堕落してゆくなか警察とヤクザを描く。ゴダールと北野を革命的な監督と捉える傾向は強いが、法維持的暴力で滅びる下層階級を扱い、政治的ゼネストの暴力革命とはほど遠い。しかし二人は学生運動の時代を経験している。端的にプロレタリア・ゼネストを扱う作品は思い当たるが本稿では神的暴力の革命に傾注する。
 一九四〇年六月ナチス・ドイツのフランス侵攻で、パリ陥落・フランス降伏時、ゴダールは九歳だった。他方、一九四五年敗戦から二年後の焼け野原の浅草で北野は生まれた。つまりゴダールと北野武は戦勝国における法措定的暴力の最初期に幼少年時代を送った。両者ともに暴力の渦中にいたことになるが、むしろ作品と作家の関係を論じるのは極めて暴力的だろう。だが分別顔で作品と作家もしくは虚構と現実に境界を設けることも暴力だ。両者は緊密にして微細なモザイクである。作品は作家の無意識の反映であり、それがひとつの作品ひとりの作家が生み出す強度ではないか。とはいえ劇映画は集団で制作される。ひとりの芸術家がロマン主義的な霊感によって創造するものではない。ジル・ドゥルーズはゴダールについて以下のように述べる。
 
 ゴダールは創作者であるよりもプロダクション事務所でありたい、映画人であるよりもテレビのニュース番組をとりしきるディレクターでありたいと公言してきました。(略)さまざまな労働を抽象的な力によって計測することをやめ、労働のモザイクをつくりたいというものです。
『記号と事件』(宮林寛訳、河出文庫、八八‐八九頁)
 
 ゴダールの発言は、北野武がコメディアンであることと響きあう。

(以下は9/10文学フリマ大阪販売の本誌で。順次通販・劇場販売予定。)

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