くに3

少年の国 第二話国民学校Ⅱ

嫌がらせはそれからも続いた。だれも遊びに誘ってくれることはない、僕から近寄って行くと、「うわ、朝鮮人が来た、にんにく臭せえ」と、鼻をつまんでみんな離れていってしまうし、さらには通りすがりに殴ってくる奴まで現れる始末だ。

そんなある日、家に帰った僕は思い切って母に思いを打ち明けた

「お母さん、僕、金じゃなくて岩田がいい」

夕飯の支度をしていた母は、手を止めると眉をしかめて僕を見た

「僕、金って名前、もう嫌だ…」

「学校で何かあったのか?」

「いや、べつに無いけど…」

僕は学校でのことを言えず小さく首を振ると母から目をそらした


その夜、仕事から戻った父は母から僕の訴えを聞くと、むっと怒った顔で僕の元へやってきた。

「岩田がいいって言ったのか、お前?」

「あっ、はい」

同時に父の大きな拳骨が僕の頭に落ちてきた。

「お前の本当の名前は『金』だって前に言っただろうが。」

父は大声で怒鳴るといつものように座卓に座り、どんぶりにどぶろく注ぎ入れ、がぶがぶ飲み始めてしまった。僕の淡い願いは見事に却下されてしまったのだった。



 そして、忘れもしないあの日が来た。いつものように「朝鮮人! 朝鮮人!」と罵る声が続くなかで、同級生の一人が皆を制するようにして言った。

「そうだ、こいつは朝鮮人だから、すぐ分かるように印をつけてやろう」

声の方を見ると、何と級長が言っているのだ。

「おい、だれかこいつを抑えろ!」

同級生の一人が僕の事をおさえつけた。

「やめてよ、何するんだよ!」

「朝鮮は日本の属国だろ、だったら朝鮮人は日本人の家畜と一緒だからな、印をつけなきゃダメなんだよ!」

級長は前の授業で使っていた筆に墨汁をたっぷり染み込ませ、僕の右目に大きな丸を書いた。「わはははは」皆の笑い声が聞こえる。

「今度はこっちだ」 級長は次に左目にはバッテンをつけ

「これで家畜だって見分けがつくぞ、はははは」

級長を筆頭に同級生たちは、大声で笑い続けた。

さすがに耐えかねた僕は教室を飛び出した。涙が止めどなく溢れてくる。

「どうして…どうしてこんな目にあわなきゃならないんだ!僕は家畜じゃない、名前が金なだけで何が違うんだ!顔だってみんなと変わらないじゃないか!」

大声で泣きながら走り続け、気が付くと僕は印のつけられた顔で家の前に立っていた。

母は僕のそんな姿に気づくと

「誰にやられた!?」と大声で訊いてきた、僕はしゃくりあげるようにしながら、かろうじて説明すると

「ほらっ!学校に行くよ。そんな奴ら絶対に許さないから!」

と言い僕の腕を引っ張って学校に向かった。


「泣くんじゃないよ。泣いてるからそいつらがつけあがるんだ」

学校までの道中、母は何度も僕をしかりながら、ぐいぐい進んでいく、やがて学校に着くと授業中にもかかわらず、教室の戸を開き、

「だれだ! だれが、うちの子にこんなことをしたんだ!」

と大声えで怒鳴りながら生徒を見回した、

「先生、あんたは知ってるんだろ」

今度は居合わせた担任の先生を睨みつけた。先生は、母の剣幕にたじろいだのか、事情を知っているはずなのに、無言で俯いたままだった。

母は怒りに体を震わせると、主犯格の級長と犯人達を見て

「おまえ達だろ!」と大声で怒鳴った。

ところが級長を筆頭に当の「犯人」たちは、自分の顔を指さしながら、「俺じゃないよな」「俺じゃないよな」と口々に確認するように僕に向かって言ってくる。その度に僕は「うん」と答えるしかない。この場で、彼らを名指しすれば、その後の仕返しがもっとひどいことになることを知っているからだ。


犯人達と担任の教師、それに情けない僕の姿に母の怒りは収まらず、

「来い!」

と大声で叫ぶと、僕の腕を強引に引っ張りながら来た道を戻り始めた

「いたい、いたいよお母さん」

「うるさい!いいから来い!」

よほど悔しかったのだろう、母は僕を引きずって家に戻ると

「情けない、このバカが!」

力いっぱい僕のほっぺたをひっぱたいた。

「うわー、」僕は大声で泣き出した

「泣くな、バカ!このバカ!」母は何度も何度も僕の事をひっぱたいた。

気丈な母としては、虐められながらも何も言えない、不甲斐ない僕の姿に、よほど悔しさと情けなさを感じていたのだろう


 それからも母は、絶対に学校を休ませてはくれなかった。

ところが、そんな嫌な学校と唐突にお別れの日が来たのだ。

夏休みも半ばになったある日、急いで登校するように連絡を受け、学校に行ってみると、大勢の子どもたちが集まってざわついていた。

校長先生が壇上に立ち、声を張り上げるようにして皆に告げた。

「昨日、わが大日本帝国は、戦争に負けました。これから米軍が日本に上陸して来るでしょう。この学校もこれからどうなるかわかりません。夏休みが終わっても、しばらくは学校に来ないでください。」

小さな僕はわけがわからず、壇上から肩を落としながら下りていく校長や、深刻な顔で目を閉じている担任の事を見ていたが、しばらくして、学校に来ないでくださいという校長の言葉に気づいたとき、ふっと喜びが込み上げてきた。

これであの酷い嫌がらせから解放されるのだ。僕は嬉しくて仕方がなかった。足取りはどうしても軽くなるし、顔もゆるんでくる。

「これで、助かった」と独り言まで出てくる始末だ。

 それに戦争が終わったことも僕には嬉しかった。負けるということがどういうことかはよくわからなかったが、空襲に怯えることはもうないはずだと思った。

つい先日まで、毎日のように空襲警報が鳴ると、その度に防空壕に飛びこんでいた。

「逃げろ!」という父の声が聞こえると、眠たい目をこすりながら起き出す。

「ほら、早く! 早く!」という母の声にせかされて、防空壕に急ぐ。

いったん防空壕に入ると、そのまま夜の明けるまで壕のなかで眠ることもあった。


寒い夜には、暖を取るために練炭を燃やす。狭い空間では、練炭が不完全燃焼を起こし、一酸化炭素中毒を起こす危険が高い。実際に中毒になりかけたこともあったが、この時は幸いにして気づくのが早く、父母と僕と妹はかろうじて助かった。しかし、実際には近所で一家四人が中毒死した事件もあったのだ。


夜間の空襲が始まると、米軍のB29が、数十機で編隊を組んで、夜空高く不気味な音をたてながら飛んで来る。裏山には日本軍の高射砲陣地があり、そこからサーチライトが照らされ、灰色の機体が映し出される。その編隊に向かって高射砲が「ドンドン」と発射されるが、それも数発で終わってしまうし、B29には全然届かない。情けないほどだ。

 そして、沈黙が訪れる。翌朝になってみると、トタン屋根には穴が数ヶ所空いている。米軍の空襲は、僕の住んでいる横浜の南部は通過していくだけだから、米軍の爆弾のせいではない。日本軍の高射砲の弾の破片のせいだ。何とも日本軍は頼りないものだった。


 ある日、大人たちが竹槍を持って走って行くのを見かけた。口々に「米軍の飛行機が落ちた」と叫んでいる。子どもたちも「すごい、すごい」と嬉しそうのに後を追ったが、しばらくして、みんな行きとは大違いのしんみりした顔で戻ってきて、落ちたのは米軍機ではなく、日本の飛行機だったと教えてくれた。大人たちはみんな、がっかりしていたが、僕にとっては「なあーんだ」というのが実感だった。


そんな、ある夕方、北の方の空が真っ赤になっているのを見た。まるで夕焼けのようで、なんてきれいな空なんだろうと思ったが、そんな方角に陽が沈むはずがない。

「きれいだなー」

僕は不思議な夕焼けを見ながらつぶやいた

「海守(へす)」呼ぶ声に振り返ると、そこにはお父さんの弟で四番目のおじさんの萬守(まんす)おじさんが土木作業を終えた作業着姿で立っていた。

「おじさん見て、すごくきれいな夕日だよ」

僕の言葉におじさんはため息をつくと

「海守、あれは夕日なんかじゃない、あれは空襲だ」

「空襲?」

「ほら、爆発音が響いてくるだろう」

萬守(まんす)おじさんに言われて耳をすますと、どーんどーんとまるで花火のような音が聞こえていた

「あの赤い空の下で今頃たくさんの人たちが逃げ回ってるんだろう…。まったく、こんなバカげた戦争、日本はいつまで続けるつもりなんだ…」

萬守おじさんは赤く染まる北の空を見ながら、唇をかみしめていた


振り返るとあの日、おじさんと一緒に見つめた赤い空は、横浜か川崎を襲った空襲だったのだろう。

 大人になってから調べて分かったのだが、実際、横浜も五月二十九日に五〇〇機を上回るB29の大編隊による大空襲を受け、約八〇〇〇名から一万名に及ぶ死者を出している。しかし、これは横浜市の中心部を襲ったもので、僕自身は直接空襲を経験することはなかった。

余談だが、僕はあの日見た夕焼けのような空が、三月十日の東京大空襲だったのだと長い間思いこんでいた。一夜にして、東京の大半が焼き尽くされ、正確には分からないが、十万人もの命が失われたと推定されている大空襲のことである。しかし、東京大空襲は真夜中のことで、あんな夕方ではない。東京には五月の大空襲もあり、それだったのかもしれないし、横浜も川崎も何度も空襲を受けて凄い被害を受けている。そのどれかだったのだろうと推測するしかない。

あのきれいな空の下で、多くの人々が逃げまどい、そして当時の僕と同じくらいの子供たちも無残に焼かれて、苦しみながら死んでいったのだろう。しかしその時の僕には、そんな恐ろしい光景など想像もできず、ただきれいな空としか思えなかった。

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