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少年の国 第7話 アボジとハンメ

 父の買った田圃はすでに収穫が終わっていたが、かなりの広さだった。

「海守、来年になったらお前もこの田圃を手伝うんだぞ」

 父は何だか妙に張り切っていた。以前、水害で家の田圃を失い、それから十五年ぶりくらいで、自前の田圃を取り戻した、しかも自分の力でそれを成し遂げたのだから、感慨深いものがあったのだろう。

 同時に高揚感もあったろうし、毎晩嬉しそうに酒を飲んでいた。日本にいれば、母が文句を言ったのかもしれないが、ここには誰も止める人もいない。ついつい、飲み過ぎては大きな声で、叔父たちとはしゃいでいた。

 一緒に日本に渡った父親は亡くしたものの、母を伴い故郷に帰ってきたのだ。兄弟も一緒だ。しかも日本で稼いだ金を運んできて、これだけのものを手に入れたのだ。長男としては、「果たすべきことは果たした」と思っても無理のないことだったのだろう。

 食事もけっこう豪華だった。ご飯は真っ白な白米を炊いたものだったし、おかずも黒豚や鶏をつぶした肉がふんだんに出された。当時は貴重な卵が添えられることもあった。ひょっとするとこの頃が蔚山生活では一番豊かな時期だったのかもしれない。

 それでも、怖い父、大声を上げる父、とにかく怖くて仕方のない僕は、早めに布団に入って、眠ってしまう毎日だった。

 横浜とはまったく違う環境にもとまどっていた。家の近くには、鶴城公園という小山の上の公園があり、あたりを見渡しても田圃と畑だらけ、水道もなく、みんなで共同井戸を使っている、そこはまさに田舎町だった。今になれば懐かしい自然豊かな土地ではあるのだが……。

 鶴城公園は、かつて豊臣秀吉が朝鮮に攻め入った時に、加藤清正や小西行長が拠点とした砦の跡と伝えられている。苦戦して、食糧補給のできなくなった清正が、自軍の馬を殺して肉を食べ、血を水代わりに飲んだという話もある。

 今ではのどかなこの鶴城公園は、後々僕のさまざまな思い出の舞台になることになる。 もっともいつまでも家に一人でいられたわけではない。早く言葉を覚えるようにという父の配慮で、すぐに小学校に通わされることになった。父にしてみれば、日本で生まれた長男が、母国語を知らずに育つことに危機感を持っていたのだろう。

 日本での差別体験がある僕としては、学校と聞いただけで行きたくない気分だ。

「学校に行っても、言葉も分からないし……」

 一応は抵抗してみたのだが、父に怒鳴られただけだった。

「言葉なんかすぐ覚えられる。先生には日本語の分かる人もいるはずだ。行けば何とでもなる。それとこれからは、お父さんのことは『アボジ』と呼ぶんだ。お婆さんは『ハンメ』だ」

「じゃあ、お母さんは?」

「お母さんは『オモニ』だ。いずれこっちに来るから、今から覚えておけ」

「はい……。アボジ、オモニ、ハンメ……」

「そうやって、少しずつでも言葉を覚えていけばいい。さあ、明日から学校だ、もう寝ろ」

「はい。おやすみなさい、アボジ」

 父はぎろっと僕を見た後、満足そうにうなずいた。

 先にも述べたが、僕の部屋は祖母と一緒だった。部屋に入るとオンドルの床の上に薄い布団が敷いてあり、その脇で老眼鏡をかけた祖母が静かに縫物をしていた。

「海守か、ちょっと来てみな」

言われるまま近づくと、祖母はいままで縫っていた服を僕の肩にあてた。

「これ新しい服?」

「明日は新しい友だちに会う日だから、きれいな服で行かないとな」

「ありがとう」

「もう少しかかるから、お前は先に寝ていなさい」

 そう言われ、布団の中にもぐるとオンドルの熱でほのかにあたたまっていた。僕は縫物の続きをしている祖母の背中に静かに話しかけた。

「ハンメ……」

 祖母は振り返り、老眼鏡を少し下げながら答えた。

「あれ、誰にならった?」

「さっきアボジから」

 祖母はにっこり笑った。

「ハンメ、明日の学校、僕大丈夫かな」

「どうしてそんなこと言うんだ?」

「だって、僕、まだ言葉も分からないし、またいじめられたら」

ハンメはじっと僕を見た後、優しく微笑んだ。

「ここはもう日本じゃない、お前の国なんだよ、いじめられるはずないだろ、さあ、心配しないで寝な」

「はい、おやすみなさい、ハンメ」

「おやすみ、いっぱい寝な」

(ここは僕の国なんだ……)

 僕は布団の中に顔をうずめ、何度もそう自分に言い聞かせながら、そのまま眠りについた。

 僕の入学した福山小学校は、小高い丘の上にあり陽当たりのいい平屋建ての校舎だった。その前にはグラウンドがあり、その周囲には、一〇メートル程おきに桜の木が植えてあった。日本で通った学校よりもこぢんまりしていたが、僕には理想的な環境に思えた。

 しかし教室に入ると、やはり夕べの僕の不安は的中した。ハンメに連れられて学校へ行き新しい教室に入ったまではよかった。しかし担任の教師が僕を紹介した直後、同級生たちは何やらざわつき始めた。

教師が授業を始めたが、まったく何を言っているのか分からない? 教科書を開いても何が書いてあるのか分からない。みんなが何を言っているのか、まったく分からない。僕は教室の隅にただ座っているだけだった。やがて鐘がなると、教師は僕をちらっと見ただけで、そのまま教室から出て行ってしまった。

 気がつくと周りのみんなは僕を珍しそうに見ていた。そんな同級生の中に体の大きな少年が一人、何やら怖い顔で僕のことを見ている。嫌な予感がして、静かに下を向いていた。 しかし、その予感は現実のものとなった。その体の大きな少年が、数人の生徒を従えて僕に近づいて来た。そして僕の前の空いている席にドカッと座ると、まるで不思議な生き物を見るように僕を観察し始めた。坊主頭に四角い大きな顔、その中に配置された細い目をきょろきょろさせていたその少年は、突然早口の朝鮮語で僕に話しかけてきた。

「○×△……△○×……」

 僕は何を言ってるのかさっぱり理解できず、「ごめんなさい。僕、まだ朝鮮語が分からないから」と日本語で返しながら、作り笑いで応対した。

 四角い顔の少年はその直後、小さな目をきっと吊り上げて、「イルボンマル(日本語)?」と言い、眉間にしわをよせ、怖い顔で睨みつけてきた。同時に周りにいた生徒たちも、敵意を持った目でこっちを見ている。

 僕は仕方なく、「ごめんね、その内ちゃんと覚えるから」と日本語でそう答えた。

「エーイ、イヌム!」

 四角い顔の少年はそんな僕の様子が気にさわったのか、大きな手で僕の髪の毛をむんずと掴んできた。そしてまるで敵を見るように殺気立った顔を近づけ、

「イゴ、パンチョッパリヤ……」

 そう言いながら僕の頭をぐりぐり振り回すと、そのまま他の生徒と一緒に教室の外へと出て行ってしまった。

 後に知った、その少年の名は、李龍大。僕にとって、今でも忘れることのできない、その少年との初めての出会いだった。

続き 第8話 パンチョッパリ↓


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