少年の国 第5話祖国への旅立ち
●敗戦までの道のり
僕が生まれて間もなく始まった戦争は、緒戦こそ真珠湾攻撃の成功、南方への進出など快進撃が続いたものの、翌年六月にはミッドウェー海戦での敗北、十二月になるとガダルカナル島からの撤退など重要な戦闘局面での敗北が続いていた。
さらにこの物語が始まった頃には敗戦への坂道を転げ落ちるような状況だった。
1945年三月になると、東京の大空襲をはじめ各主要都市が空襲で壊滅的な打撃を受けた。十三日は名古屋、翌十四日には大阪、十七日には神戸が大々的な空襲を受けている。
そして、四月一日沖縄に米軍が上陸し、六月二十三日の守備隊全滅まで絶望的な戦いが続けられた。それでも、日本という国は戦う「意志」だけは持ち続けた。六月に入っても、天皇臨席の最高戦争指導会議で、無謀にも「本土決戦準備」の方針を採択している。
七月にはソ連に対し、終戦の斡旋を依頼して断られるという醜態を演じている始末だし、二十六日に発表された「ポツダム宣言」も黙殺している。この頃には、正常な判断力を失っていたとしか言いようがない。その最終的な愚行が招いたのが、八月六日の広島、九日の長崎への原子爆弾の投下だ。広島では推定で約十四万人、長崎では約七万人の命が失われた。
八日にはソ連が宣戦布告、満州になだれ込んだ。人々はソ連が裏切り行為を働いたと非難していたが、それ以前の経緯を考えれば、十分に予想されたことだったはずだ。しかし、この事態を引き起こした「ツケ」は、戦後の六十万人以上の「シベリア抑留」という結果となって現れ、多くの人々が望郷の思いを抱いたまま、シベリアの大地に眠ることになった。
敗北が決定的になっていた、昭和二十年四月から、ポツダム宣言受諾までの四ヶ月半の間に、どれだけ沢山の命を失ったのだろう。日本人だけではない。僕たちの同胞の命も数多く失われた。自ら日本に活路を求めた人、徴用されて日本あるいは樺太に渡った人、強制的に日本に連れてこられた人、その立場は別でも、命は平等である。僕の記憶が残り始める数ヵ月は、あまりにも過酷な歴史を刻んだ時間だった。
●帰国までの日々
実のところ、昭和二十年の何月に慶尚南道に帰ったのか、正確な記憶がない。八月の終戦以降の記憶はいくつかあるが、やはり断片的なことだ。
敗戦直後のまだ夏の陽差しが厳しかったある日、父にとって一番下の弟、萬守叔父さんが「おい海守、海水浴に行くぞ」と誘ってくれた。僕にとっては初めてのことである。
戦時中は米軍機の機銃掃射があり、恐くて誰も海水浴など行ける雰囲気ではなかった。それがもう何にも脅かされることがないという解放感もあったのだろう。
砂浜に着くと沢山の大人や学生たちが楽しそうに泳いでいた。どの人も戦争中には見せたことの無いほっとした顔だった。
萬守叔父も久々の海水浴がよほどうれしかったのか僕のことなど完全に忘れ沖に向かって泳いで行ってしまった。僕も初めての海水浴に浮かれていたのか叔父についていこうと海に入ったまでは良かった。しかし、考えてみると僕は泳いだことがない。急に深くなった足元に驚きそのまま見事に溺れてしまった。必死にもがきやっとの思いで水面に顔を上げるがすぐにずぶずぶと沈んでしまう。
そんな事を幾度も繰り返し、「このまま死んでしまう!」という恐怖に襲われた時、見ず知らずの中学生が僕の手を掴んで引き上げてくれた。その恩人のおかげで九死に一生を得ることが出来たのだが、僕にとって生まれて初めての海水浴は人生最大の恐怖体験となってしまった。
その後は、さまざまな意味で生活が激変した。しかし、父の酒好き、博奕好きには何の変化もなかった。当然酒の入手に困ったようでその挙げ句、どこからか工業用のメチルアルコールを手に入れて来て、友人と一緒に呑んでしまった。薬用のエチルアルコールならともかく、メチルは猛毒である。結局友人二人が命を落とし、一人が失明する羽目に陥った。酒好きというのは、常識では計り知れないことをしでかすものだ。
父も生死の境をさまよったが、母の献身的な看病で命拾いすることができた。母は白米をすり鉢ですりつぶし、水を加え、さらの何種類かの漢方薬を加えて何日間も父に与え続けた。そのおかげで父は命を拾ったのだった。夫婦の絆の凄さを感じさせる「事件」だった。
大人は酒の入手に苦労したようだが、子どもたちのおやつは潤沢になった。米兵がガムやチョコレートをくれるからである。しかし、残念ながら僕はその恩恵にはあたれなかった。
敗戦から、それほど日数がたっていなかった頃、まだ夏の日だったと思う。母に連れられて銭湯に行く途中、既に占領軍として横浜にも進駐していた、米軍のトラックが通りかかった。
「ヘイ! ボーイ」
荷台に乗っていた兵士の声が聞こえ、僕の方に向かってチューインガムを放ってくれた。当然、僕はそれを拾おうとした。その途端母親の大きな声が飛んだ。
「そんなもの拾うんじゃない!」
「えっ?」
僕は拾おうとした手をあわてて引っ込めると、そっと母を見た
「毒が入っているかもしれないんだよ」
「毒って他のみんなも…」みんなも拾っているから毒なんて入ってないよ、そう言いかけて言葉を止めた、その直後、僕の近くにいた別の子供が、大慌てでガムを拾い上げその場から走りさってしまった
「あっ!」
僕は未練がましい顔で、走り去る子供の背中を見ていた、母はそんな僕の背中をポンとたたくと
「海守や、お前はあんなもの拾って食べるような恥ずかしいマネはするんじゃない」
「う、うん」僕は(惜しいことをしたなあ)と心で思いながらも、しぶしぶ頷いた
多くの日本人の子どもは、米兵が投げ与えたお菓子を当たり前のように喜んで拾っていた。しかし母には、米兵が投げ捨てるようにしたお菓子を拾うことが恥ずかしいことであり、プライドが許さなかったのだろう。今考えてみると、とても母親らしいことだったのかもしれない。
一方、大人たちは、闇商売に精を出していたようだ。家の向かいの飯場の男たちが中心になって、管理が甘くなった軍の倉庫から米を俵ごと持ち出すことが横行した。その俵がなぜかわが家に運び込まれる。家中が活気づいて、父も元気な声をあげていた。
「どんどん持ってこい。いくらでも買ってやるぞ!」
実際、父はその米をどんどん買い取っていった。たちまち、部屋中が米俵で一杯になる。どうやら父は引き取り先に宛があるらしく、その米俵は順次運び出された。この商売は相当儲かったようで、しばらくの間、父と母の機嫌がよかった。子どもたちにとっても、それは実にありがたいことだった。
そうこうしているうちに、大人の間で、慶尚南道の故郷に帰ろうと相談が始まったようだ。
「どうやって帰ろう」
「誰と誰が先に帰る?」
そんなひそひそ話が僕の耳にも入っては来る。しかし、朝鮮に帰るということがどういうことなのか、実感的には分からなかった。
戦後の混乱は続いており、情報も少ない。そこで、母と妹を日本に残し、祖母と父と僕、さらに二番目と四番目の叔父の五人がまず帰国することになった。いわば「先遣隊」である。故郷での生活が安定するようなら、残った家族を呼び寄せることにしたわけだ。
帰ることが決まると、今度は現金をどうやって持ち出すかという相談が始まった。当時は送金や為替などは使えないわけだから、現金を持って行くしかない。いろいろな方法が話し合われていたが、結局布団の綿の中に紙幣を詰め込んで持って行くことになった。 後に家や田圃を買うことができたのだから、相当の金額だったはずだ。
そして、1945年の秋も深まったころ、ついに出発の日がやってきた。僕は見知らぬ土地に行く期待よりも、母と別れるつらさで一杯だった。
「海守や…」
母は腰を下ろすと、やさしく僕の両手を握りしめた
「いいかい海守や、向こうへ行っても負けるんじゃないよ」
「……」
僕は恨めしそうに母を見た
「お前は強い子だ、だから大丈夫…」
「強い子?お母さん僕、強くなんかないよ」
母は小さく首をかしげた
「だって、学校でもあんなに虐められてたし、それにみんなが怖くて何も言えなかったし…」
「なら、強くなればいい」
「…?」
「強くないなら、これから強くなりなさい」
僕は上目遣いで母を見つめ尋ねた。
「強くなれるかな?」
「なれるに決まってるだろ、海守にはお母さんと同じ血がながれているんだからね、ほらこうすればわかる。」
母は僕の小さなからだを抱き寄せてくれた。母の暖かいぬくもりが伝わってくると同時に、この母と同じ血が僕にも流れている。そう思うとなぜか頑張れる。そんな気がしてきた。
「さあ、もう行かないとね」
そう言うと母はいつものような気丈な顔にもどって
「落ち着いたらお母さんもじきに向こうに行くから。それまでお婆さんやお父さんの言うことをきちんと聞いて、いい子でいなさい。」
「またすぐ会えるから、会えるから…」
母はそう言いながら再び僕を強く抱きしめた。僕は黙って頷いた。小さな頬には涙が流れ続けていた。
「おい、そろそろ行くぞ!」
父の声が響いてきた。母はあわてて僕を引き離すと
「さあ、行きなさい」やさしく僕の背中を押した
「海守や、おいで」
沢山の荷物の脇で祖母がやさしく手を差し伸べていた。僕はあわてて走りよると祖母の手をそっと握りしめた
「お婆ちゃんもいるから…」
祖母は僕の手を握り返すと優しく微笑んでくれた。
いよいよ母と別れる時、僕は何度も母の方を振り返ってみた。母は手にした手拭いを振りながら、みんなを見送っていた。明るい笑顔だった。
でも、最後に振り返った時、母は手拭いで顔を覆っていた。
途中の旅は疲れることばかりだった。乗り込んだ列車は超満員で、もちろん座席に座ることなどできない。狭い通路に大きな荷物を置き、その上に座ってどうにか山口にたどり着いた。その間中、満員の人の圧迫感と蒸気機関車のはき出す煙を吸って、苦しい思いをした。祖父や父、叔父などがたどって来た道を逆に進んだことになる。
当時下関の港は使えず仙埼港を出た船は大きな波に揺られながら釜山の港へと向かった。大人たちには何らかの感慨はあったのだろうが、子どもの僕は、母との別れをひきずり、未知の土地に向かう不安で疲れてしまったのだろう。そのほとんどを眠ってすごしていた。
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