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少年の国 第28話 僕の冒険

 その後も僕たちは、善基兄さんを捜し続けた。しかし、来る日も来る日も、大きな進展はなく、疲れ果てて家路に向かう毎日が続いた。

 そんなある夜、みんなと別れ家に着いた僕は、一瞬目を丸くした。そこには今まで見たことのない一家が疲れ果てた顔で寝ているではないか。お客なのかと思ったが、様子をみると明らかに避難民だ。夫婦と幼い子どもが二人もいる。そこへ奥の部屋にいたハンメが姿を現した。

「お帰り、海守。善基さんの手がかりはつかめたかい?」

「ううん……それよりハンメ、あの人たちは?」

「ああ、しばらく家に置いてあげることにしたんだよ」

「親戚? それとも知り合い?」

「どっちでもないさ。あんまり困っているようだから、住まわせてあげることにしたんだよ」

「大丈夫なの、知らない人と暮らして……」

「海守、何を言うんだい。釜山に行ったときのことを思い出してごらん。あのとき、泊めてくれる家がなかったら、私たちはどうなっていたと思うの」

「でも、あれは一晩だけだし……」

「困っているのは同じことだよ。お互い様なんだよ、こういうときはね」

 ハンメのやさしさは、こんな形でも発揮された。

ハンメについてはこんなエピソードもある。

まだ戦争がはじまる前だったが、平壌から逃げてきた二人の兄弟がいた。一人は若い青年で一人はまだ子供だった。

村のみんなは共産主義の子供たちといって二人の事を避けていた。しかしハンメはそんな彼らに対していつでもやさしく。

お兄さんの方が売り歩いていた、海から仕入れてきた海産物も買ってあげたり、小さな弟がさみしそうに一人で遊んでいると、

「一緒に仲間にいれてあげなさい」

そう言って弟のほうを僕たちの元へ連れてきたりもした。

ハンメについてはまだまだいろいろな話があるが、今はこの難民の親子の事について…

この親子は、もともと大邱近郊で農家を営んでいたらしいが、大邱戦線で村を焼かれ祖父母を亡くし、親子4人で飲まず食わずで逃げ延びて来たらしい。

小さな子どもを連れての長い道中、そうとう苦労したのか、僕がハンメと話している間

も、親子はぐっすりと眠っていた。衣服はボロボロで真っ黒に汚れていた。

 その身なりとぐっすり眠っている様子から、この親子もどれだけ大変な道中を切り抜けて、蔚山へ到着したことか…。

 大変な道中というと、僕にとっても忘れられない大変な旅の話をしたいと思う。

 戦争のおかげで日本からの仕送りはすっかり途絶え、大黒柱の萬守叔父もいないわが家の暮らしは、そうとうに逼迫していた。目の不自由なハンメの内職や、果物の行商で得る収入などたかが知れている。

「お金があったら……」

 ハンメは毎日そう嘆いていた。

 そんなある日、ハンメからアボジが日本へ帰る前、慶州の友人に大金を貸していることを聞かされた。ハンメは小さな金庫から借用書らしきものを取り出すと、僕に見せてくれた。そこにはすごい金額が書き記されている。

「すごい、このお金を返してもらえたら、生活だって楽になるし、ハンメの目だって治してもらえるのに……」

 それから毎日のようにそのことばかり考えていた。しかし、慶州近郊は激しい戦闘が続いており、そこへ向かうための交通手段も途絶えた状態では、どうすることもできなかった。

 しかし、九月十五日の仁川上陸作戦による国連軍の反撃から戦況は韓国軍が優勢をとりはじめ、九月の終わりころになると、慶州へのバスが動き始めたという。

 その話を耳にした僕は、ついに決意を固めた。ハンメは目が悪いし、萬守叔父はいまだに病院から戻って来ることができない。となると慶州まで出かけることができるのは、僕しかいない。僕は、ハンメに内緒で借用書を大切にカバンの奥へしまうと、住所の書かれたメモを片手に、たった一人、慶州へ向かうことにした。

 早朝、龍大の家に行って事情を告げると、龍大は「慶州に行くのか?」と眠そうに目をこすりながら僕を見た。

「ああ、お父さんの借金を返してもらいに行くんだ」

「でも慶州行きのバスなんてあるのか? 向こうの方はまだ大変だって聞いたけど」

「それなら大丈夫。韓国軍とアメリカ軍が敵軍を追い払ったって、昨日もラジオで言ってたし、何日か前から慶州行きのバスも走り始めたらしいからさ」

「そうか、それじゃ気をつけて行けよ」

「ああ、帰りはきっと夜になるから、戻ったら顔を出すよ。それから……」

「分かってるよ、善基兄さん捜しは、俺たちに任せておけよ」

「ありがとう、龍大」

 僕は借用書の入ったカバンをたすき掛けに背負うと、意気揚々と駅へ向かい、前日調べておいたバスで一人慶州へと向かった。


 どうにか慶州市内にたどり着いたのはいいものの、そこからお金を貸している相手の家までは一時間以上かかってしまう。僕は帰りのバスの時間を確認すると、小走りで目的地へと向かった。さすがに市街地では激しい戦闘があったらしく、倒壊した建物や行き場を失った避難民の姿が目に入ってくる。

 蔚山以上に悲惨な町の姿を目の当たりにしながら僕は、意気揚々と来たのはいいが、貸している人の家もすでになく無駄足になるのでは、と不安になりながら歩き続けた。しかし、目的の町に到着すると、そこは戦火を逃れた様子で、人々は何事もなかったように過ごしている。

 僕は家々を聞きまわりながら、やっとの思いで目的の家へたどり着き、返済をお願いした。

「アボジがお貸ししたお金があるはずです。金額はこの紙に書いてあります。どうか返してください。アボジが日本に戻り、連絡もなく、お金を送ってもらうこともできません。叔父も戦争で怪我をして、ハンメと二人で困っているのです」

 バスの中で練習した台詞を必死に訴えた。ところが返って来た言葉は、

「坊や、たしかに君のところも大変かもしれないけど、見ての通りここも戦争のせいで大変なんだよ。それに、もともとが貧乏で、君のお父さんにお金を借りたんだよ。うちも苦しくて。明日どうやって食糧を手に入れるかで精一杯なんだ。とても坊やに返すお金なんかないんだよ。悪いけどこのまま帰ってもらうしかないなあ」

 先方は子どもの使いと思ったのか、つれなくそう言う。

「でも、返してもらわないと困るんです。ハンメの目の治療代もないし、全額でなくてもいいから返してください」

 バスの中で考えていた別の言葉で応戦した。

「だから返したくても返すお金がないんだよ」

 相手はそう言い残すと、僕を無視してさっさと中へ入って行ってしまった。

(せっかくここまで来たのに……)

 僕の目からポロっと涙が流れ落ちた。どうしても諦めきれず、

「返してください……。少しでいいから返してください……」

 何度も叫び続けた。しかし、その家の家族は子どもの僕など相手にしてくれず、まったく出てくる様子はない。

 悔しくなった僕は近くにあった大きな石を拾い上げると、家の扉に向かって投げつけた。

ガンッ!

「返せー! お金を返せー!」

 再び石を拾ったそのとき、扉が開き、中からおじさんが顔を出し、「このガキが、何てことしやがる!」と持っていた棒きれを振り上げ、追いかけてきた。

 たまらず僕はその場から逃げ出した。どれだけ走ったか、振り返るとおじさんの姿はなかったが、悔しくて涙が止まらなかった。結局、一ウォンも返してもらえず、僕の借金取り立ては無駄足になってしまった。しょせん、子どもの僕では無理だったのだ。

 それから僕は、半べそをかきながら慶州駅まで歩いた。どうにか町にたどり着いた僕は、駅の時計を見た。帰りのバスの時間は午後三時、駅の時計を見ると二時三十分、僕は唯一残った帰りのバス賃を寂しそうに眺めると、一人バスを待ち続けた。

 ところがどういうわけか、待てど暮らせど帰りのバスはやってこない。駅の時計を見るとすでに四時近くなっている。

「あれ? 何で来ないんだろう……」

 不安になった僕は立ち上がると、近くで座っている靴磨きのおじさんに尋ねてみた。

「あの、おじさんバスが来ないんですけど」

 靴磨きのおじさんは、靴墨で真っ黒く汚れた顔から白い歯を覗かせると、「バスなら二時に行っちまったよ……へへへ」と笑っている。

「えっ⁉ どうしてですか、バスの時間は三時のはずでしょう?」

「そんなの知らねえよ。二時に出ちまったのは確かだからな。悔しかったらバスの運転手に聞いてみることだな……」

 おじさんは、嬉しそうに笑い続けていた。

 借金も返してもらえず、蔚山へ帰る術を失った僕は、気がつくとぽろぽろと涙を流しながら靴磨きのおじさんを睨んでいた。

「おいおい、俺を怨んだって無駄だぜ、バスは明日まで来ないんだからな」

 おじさんはそう言って立ち上がると、「どうせお前さん、どこかに泊まる金なんか持ってないんだろ、こっちに来な……」と、すたすたと慶州駅の方へ歩き始めた。

 駅の入り口には兵士が銃を肩に下げて立っていた。おじさんはその兵隊さんに手を上げると、まるで自分の家のように駅舎の中へ入っていった。そして駅舎の一角を指差し、

「夜になると物騒だからな、ここなら兵隊さんも見張ってくれてるから安心して寝れるだろ。あそこで眠りな、疲れてんだろ」

 そう言い残し、再び兵士に手を振って外へ出て行ってしまった。

 この人は、いい人なのか、悪い人なのか? 僕はしばらく首をかしげていたが、やがておじさんに言われた場所にちょこんと腰を下ろすと、恐る恐るあたりを見渡した。

 そこにはボロボロの服をまとった避難民の人たちが、真っ黒に汚れた顔で目をギラギラさせながらこっちを見ている。僕は柱の陰にそっと隠れ、恐怖に脅えながらじーっと身を潜めていたが、長い一日に疲れはてていたせいか、そのまま眠りについていた。

「あれ?……」

 目を覚ますとあたりはすっかり暗くなっていた。

「よっぽど疲れてたようだな、ボウズ」

 気がつくと隣には、さっきの靴磨きのおじさんが真っ黒い顔から白い歯を覗かせ、ムシャムシャと豚足をかじっていた。僕のお腹から、ぐうっと大きな音が響いてきた。

(そうだ、夢中で出てきたせいで、朝から何も食べていなかったんだ……)

 そう気がついた瞬間、お腹からカエルの合唱のようにグウグウと音が響き続けた。

 靴磨きのおじさんは白い目でギョロっと僕を見ると、

「お前にやる分はないからな。寝れる場所を教えてやっただけありがたく思えよ」

 そう言って、再び豚足をガリガリかじり続けた。

 僕は恨めしい気持ちで、おじさんのことを見ていたが、(ダメだ、あんな姿を見ていると、どんどんお腹がへってきちゃう)と思い、仕方なく別の方へ体を向けた。

 駅の構内は気がつくと、さっきよりも人が増えていた。疲れて寝ている人、タニシの貝殻を使って、大声で怒鳴りながら博打をやっている人、ガリガリにやせ細った身体でぼーっとしゃがみ込んでいる人……。慶州は戦場がより近いせいか、蔚山以上に戦争という現実を教えられる思いだった。

 やがて夜も遅くなり、今まで博打をしていた人たちも、隣の靴磨きのおじさんも、グウグウいびきを立てて眠っていた。僕も柱の陰で静かに眠っていたのだが、突然、ドドーン、ガガガガ……けたたましい音に慌てて目を覚ました。

 構内で寝ていた人たちもいっせいに爆発音を確かめている様子だ。そこへ再び砲声が響いてきた。

「大丈夫だよ、音の様子じゃ、また、遠い市街地の戦闘だろう」

 靴磨きのおじさんはそのまま眠ってしまった。

 おじさんがそう言っても、不安な僕は駅舎の窓から恐る恐る外を見た。真っ暗だった山々の間から、時折きれいな青白い光が大きく広がる。それから少し遅れてドーンと爆発音が聞こえてくる。そんな光景をじっと見ているうち、僕は幼い日の、日本での空襲を思い出していた。

 空襲警報が鳴り響き、母に手を引かれて防空壕へ走る。何度もそれの繰り返しだったが、そのときは隣に優しい母がいて、僕の背中をさすってくれていた。

(オモニは今頃どうしてるんだろう……。何時になったらこっちに来てくれるんだろう)

 たった一人、爆撃音を聞いているうちに心細くなってきた。僕は、

「お母さん……」

 気がつくと日本語でそう呼びながら、声を潜めて泣きじゃくっていた……。

つづき 第29話はこちら↓


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