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少年の国 第6話 祖国での洗礼

 第二章 祖国での暮らし

●いきなりの「洗礼」

 こうしてたどり着いた釜山港で、僕たちは「祖国」に痛烈な洗礼を浴びせられた。

 荷物を岸壁に下ろすと、父は一人でその場を離れた。「トラックを手配してくる」と言い残していた。僕は残された祖母や叔父と一緒に岸壁で待つことにした。まず、大事なお金の入った布団を中心にし、僕はその上に乗った。それを祖母や叔父が取り囲むように座り込み、小さめの荷物を各自の前に置いた。 改めて布団の上から眺めてみると、よくぞこんなに運んで来たものだと思うほどの荷物だ。列車や船に乗り込む時は、さぞ大変だったろう。

 ところが、父が去った後、周囲の雰囲気が怪しくなってきた。どうも不審な連中がうろうろし始めたのだ。

「嫌な感じだな」 叔父がぼそっと呟いた。

叔父からは心なしか身構えたような緊張感が感じられた。気がつくと僕たちは、見知らぬ男たちに遠巻きにされているようなのだ。すぐに近づいて来ることはせず、その分かえって不気味に感じられた。

 やがて、一人の男が何気なく近づいてきた。そして素速い仕種で荷物の一つを持って逃げ出した。こちらのメンバーには、叔父の他に、飯場で働いていた若い男が二人いた。その一人がそいつを追いかけて走り出す。走りながら、「後ろに気をつけろ!」と叫んだ。それに促されて反対側を見ると、今度は別の男が近づいてくる。それを追い払うようにすると、今度は横から近づいてくる。完全にチームプレーだ。

 すると、叔父が真ん中の布団の荷物に手を入れた。手にしていたのは木刀だった。きっと護身用に荷物に潜ませていたのだろう。さすがに木刀を見た泥棒たちはたじろいだようだった。じりじり後ろに下がりだしたのだ。荷物の上でふるえていた僕も少しほっとした。

 ようやく父がトラックに上乗りして戻った頃、何もなかったように警察官が近づいてきた。

「おい、被害はなかったか?近頃は物騒だから気をつけないと」などとのんびりしたことを言うと何事もなかったように駐在所へ戻って行った。

「えらそうに警察ならもっと早く出てこい」と叔父たちは悪態をついていた。

こうして、荷物を満載にしたトラックは蔚山を目指すことになった。助手席には祖母と僕、残りの男たちは荷物と一緒に荷台に陣取った。釜山と蔚山を結ぶ道路は、結構な幹線のはずだが、舗装されてはいず、トラックの揺れはかなりなものだった。周りの景色に眺め入るほどの余裕はなかったし、荷台の父たちも大変だったろうと思う。

 釜山の港では、大きな被害には遭わずにすんだが、祖国の混乱は明らかで、これからの生活に不安を感じざるを得なかった。

●戦後の朝鮮半島

 僕たち家族が帰ろうとしていた朝鮮半島は、その時どんな状況にあったのだろう。子どもの僕には全く知る由もなかったことだが、その後の僕が遭遇した数々の体験を理解してもらうために、その概要を述べておきたい。

 日本が朝鮮半島を支配している時代、朝鮮民族は必ずしも従順に支配に服していたわけではない。日韓併合以前の一九〇九年には、初代の朝鮮統監で、枢密院議長に就任したばかりの伊藤博文が、併合に反対する安重根(アン・ジュングン)にハルピン駅頭で射殺される事件が起こっている。

日本の植民地支配が続くなかで、起こった最大の反抗運動は一九一九年に起こった三・一独立運動だろう。「独立万歳運動」とも呼ばれるこの運動は、ソウルに数万人のデモ隊が集結し、密かに用意した独立宣言を発表しようとしたものだった。この運動は全国に拡大し、農民や労働者の多くが参加した。

 五月末まで続いた抵抗運動は、全国で一五〇〇回以上の集会・デモが行われ、参加者総数は二〇〇万人以上に昇ったと言われている。これに対し、朝鮮総督府は徹底的な武力で弾圧し、死者は七五〇〇人、逮捕者は四万六〇〇〇人以上に昇った。しかし、武力鎮圧はしたものの、この事件をきっかけに統治方針を変更せざるを得なくなった。それまでの「武断統治」から「文化統治」への転換である。一定の制限はあるものの、朝鮮語新聞や雑誌の発行も認められるようになった。

 それでも民族独立の運動は続き、一九二九年には六・一万歳運動が、十一月には光州学生抗日運動が起こり、労働者のゼネストが三ヵ月も続くなど、様々な独立運動が画策されたが、日本の警察や軍隊に圧殺されていった。日本の植民地支配の時代にも、こうした独立を目指す様々な動きがあったことは、今でこそよく知られているが、当時は情報が少なく、活動そのものが分断されていた。したがって、これらの動きは統一されたものにはなっていなかった。

 そして、日本のポツダム宣言受諾によって、朝鮮半島の人々は「解放」されたはずだった。八月十六日のソウル市内は、万歳の歓声をを挙げる人々で、道という道は、白い民族服で溢れるほどだったという。人々は朝鮮総督府の下で、独立準備委員会を設立し、いち早い独立を目指した。これは総督府の要請で、日本人の安全な帰国を保証することが条件になっていた。しかし、この動きは進駐してきた米軍、ソ連軍、英国軍などの連合国によって、ポツダム宣言に反するものとみなされ、独立準備委員会は解散させられてしまう。

 しかも、これらの独立を目指す運動は、朝鮮半島以外での活動が活発で、ほとんどが指導者の亡命先だったのである。たとえば、上海にあった大韓民国臨時政府や、ソ連の影響下にあった金日成の朝鮮労働党、中国共産党の指導を受けていた満州の抗日パルチザン、さらにアメリカにも李承晩を中心にしたグループなどが存在した。その後建国準備委員会が結成され、昭和二十年九月六日には朝鮮人民共和国の成立を宣言したが、内部対立やアメリカ軍の意向などもあり、共和国は実現しなかった。

 僕の帰国は、そんな混乱した状況の真っ只中だったことになる。

●新しいふるさと

「帰国」と言っても、僕にとっては生まれて初めての「故郷」である。景色も環境も全く違う。とくに言葉が全く分からないし、周囲の人々の行動パターンも違う。別世界にやって来たというかタイムスリップでもしたような気分だった。何もできずにしばらくは茫然としていたような気がする。

 反対に大人たちは忙しそうだった。しばらく滞在した市内の宿から、毎日のように出かけていった。父や叔父にとっては久しぶりの故郷だし、親戚への挨拶や友人の消息を尋ねる必要もあった。それに何より家を確保しなければならない。不動産屋などあるわけがないから、いろいろな人の伝手をたどるよりしようがない。

 そして見つけた家はなかなかのものだった。蔚山郊外にしては珍しい瓦葺きの広い家で、部屋数が五つもあった。僕は祖母と二人で一部屋を使えたし、父は一人、二人の叔父で一部屋を使って、茶の間を除いても一部屋余るという広さだ。残りの一部屋は、後で来ることになっていた、三番目の叔父の荷物置き場にされた。

 家の中にある板敷きをはずすと土間が現れる場所があった。ここは馬を飼うための場所で、構造からすると日本人が建てた家と思われた。周囲は萱葺きの家ばかりで、瓦葺きの家はお金持ちの象徴でもある。当然、周りの人々からは羨まれる存在だった。さらにはかなりな広さの田圃も購入した。当時はローンもあるわけがない。すべて即金である。あの布団の綿の中には、いったいどのくらいのお金が入っていたのだろう。

 服装も日本から持ってきたものは、周囲の白い民族服の人たちと比べるとこざっぱりしたもので、しかも洋服だ。洒落た感じに見えたはずだ。この点でも僕たち家族は裕福な一家と見られていた。そのせいだろうか、早速、泥棒に入られた。釜山の港では何とか撃退できたが、今度はまんまと「空き巣」にやられてしまったのだった。やはり、故郷に落ち着いた気のゆるみがあったのだろう。

 今回運んできた荷物には、三番目の叔父が帰国した時のためのものも含まれていたのは、先述の通りだ。すぐには使わないものなので、それは角の一室にまとめて置いてあったのだが、その荷物が狙われたのだった。叔父の荷物はそっくり消えていた。これは後日の話だが、ある日警官が家を訪ねてきた。手には手提げ金庫がある。家には誰もいなかったので、僕が対応したのだが、言葉が分からないので困ったことになった。

「家にはだれもいません。言葉が分からないので……」と日本語で話すと、意外にも警官も日本語で話してくれた。

「坊やの家は、この間泥棒に入られたでしょう。その時盗まれた物は、どこに行ったか分からないけれど、これだけが近所の藪で見つかったんだ。これは坊やの家のものだよね」

 確かに、その手提げ金庫には見覚えがあった。

「はい、そうです。うちのものです」

「そう、それじゃこの紙に、坊やの名前を書いてくれるかな」

 一枚の紙が差し出された。きっと金庫の受取証だったのだろう。

「はい。でも父じゃなくてもいいんですか」

「かまわないよ。お父さんが帰ってきたら、きちんと話してくれればいいから」

 そう言って警官は、手提げ金庫を置いて帰って行った。

 泥棒が入った後、父と祖母が「金庫もやられたけど、大したお金が入っていたわけじゃないから……」と話していたのを僕は聞いていた。父は「鍵ばかり残っても金庫がないんじゃしょうがない」と、鍵をたんすに放り込んでいたことも知っていた。

 そのたんすから鍵を持ってきた僕は、試しに鍵穴に差し込んでみた。「カチャッ」と音がして、蓋を持ち上げると、見事に開いた。木製の皿を持ち上げてみると、なんと中には日本の銀貨が数十枚入っていたではないか。幼い僕が手にしたことのない金額だ。僕はちゃっかりとそれを自分の小遣いにすることに決めた。

 秘密の隠し場所にそれをしまった僕は、少しずつ使うことにした。このお金は、後々まで僕の「ふところ」を潤してくれたのはもちろんのことだった。

続き 第7話アボジとハンメへ↓


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