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感想【わたしたちはクーデターの日に初めてやった/浮気相手/におい】

著:ルークケーオ・チョーティロット
翻訳:福冨渉

私事だが飲みすぎた。
二日酔いの朝は後悔と決意の時間だ。もう二度と酒は飲まない。頭痛と胃のムカつきの中でそう心に決める。酒を飲み始めた数十年前から今日まで、もう何度も誓ったはずなのだが…。
味噌汁のある国に生まれて良かったと思うのもこの時である。程よい塩気に鼻の奥を通る出汁の香り。胃に優しい豆腐なんかがあれば申し分ない。ただ、既に自立し家庭を築いた身としては、二日酔いで死んでいる枕元に誰かが勝手に味噌汁を出してくれる筈もない。まして私は母親である。子供達の朝ご飯を提供せねばならぬ身の上なのだ。
重たい体を引き摺って、何とか適当にご飯を作り彼らに食べさせた。いつもは鰹節で出汁をとる味噌汁も、今日は余裕がない。適当に切った野菜を茹でて、味覇と呼ばれる中華版コンソメをぶち込み、味噌汁とはほど遠い簡易な汁物でお茶を濁した。吐き気をいなして塩分を補給しつつふとTwitterを開いてみると…どうやらきな臭いツイートが多かった。

タイの僧侶が警察に殴打される映像が目に飛び込んでくる。推しの俳優達が政府への意思表明なのだろうか、アイコンを一時的に真っ黒にしている。そうだ、普段私が観ているタイは綺麗で富裕層ばかりのお話が多いけれど、実際のタイは情勢が不安定であり、市民デモが行われる時には日本の外務省でも注意喚起がHPに掲載されてしまう。タイは自国の方向性を暗中模索中の国なのだ。

「わたしたちはクーデターの日に初めてやった」。このお話は悲しみと憤りの物語だ。女性としての視点が息遣いまで聴こえてきそうなほど生々しい。短い二ページの物語に、主人公の女性の心の揺らめきがぎゅっと詰め込まれている。受動的ではなく能動的な女性の性欲が明確に描かれている。何処か俯瞰的に彼を見つめ、時に男の非現実的な考えを心の内で一笑に伏す。けれど女には情がある。

ステレオタプな考え方かもしれないが、男は突っ走る生き物だと私は思うのだ。男女の子供を育てていても感じる。女は振り返る。男は振り返らない。いや、興味のあるものしか男には見えてない。
女はそんな男を時に馬鹿だな、と思いながらも、情で男に寄り添える。フェミニズムを掲げる方々からはお叱りを受けるかも知れないが…。私は女のしなやかな強さをこのお話の女性に感じた。しかし政局が不安定なタイに於いては、ただの男女の恋物語は悲恋になり得る。産まれる国は選べない。生まれる場所も、肌の色も、何もかも自分では選べない。諦めて長い物に巻かれる生き方だってできる筈なのに、様々な形で立ち向かう彼らの姿勢は、見ていて羨ましく思う。
私は自国にここまで意見を述べた事があるのか?いや、ない。私は長い物に巻かれて生きるタイプの人間だ。ほんの少しの抵抗を投票という形で実行するしか出来無い。

翻訳も興味深かった。一人称を「わたし」としているが、「私」としなかった理由は何だろう。表題は「わたしたちはクーデターの日に初めてやった」である。「私達は」「私たちは」「わたし達は」。日本語では他にもこの様に表現出来る。日本語はひらがな、カタカナ、漢字の三種類をお好みでチョイス出来てしまうので、きっと「わたしたち」と漢字を使用せずに表記した事にも翻訳の意図があるのだろう。漢字を使用しない事で視覚的な柔らかさを求めているのか、はたまた女性の一人称によく使われる漢字を使う事で「私と彼」は個別に切り離され、二人の共犯性がなくなってしまうからだろうか。
明確な意図があってこの様に表記したのかどうか、実際のところはわからない。もしかしたら「何となく」この表現にしているのかもしれない。けれど私は日本語の妙が面白い。何となくチョイス出来る種類が4つもあるこの国の言葉は曖昧で愛おしい。

さて、「浮気相手」「におい」も女性の能動的な性が描かれている。
作者紹介の部分には「女性が欲望を発露すること自体が不道徳と強く非難されるタイ社会」と記載があった。現在風呂上がりにちびちび読んでいる下川裕治さんの「バンコク探検(1991年)」で、タイ人は男女ともに浮気性だと書かれてあった。男はすぐに「ミーヤノイ(妾)」を作るし、女も女で惚れっぽいそうだ。バンコクの市井では男女の痴情な話が溢れている(意訳)とも書かれてある。反面、「メナムの残照(1965年)」に描かれているタイ人女性のあるべき姿は、貞淑で身持ちが固い事に重きが置かれていた。注意すべき点は、「メナムの残照」も「バンコク探検」も、30年以上前に書かれた作品である事だ。日本円がまだ強かった時代に刊行されたタイ関連本は、時として日本人の傲慢さに辟易してしまう時がある。常識や見方は時代によって移ろう物なので、執筆者が悪い訳ではないのだが…。そんな時代背景を考慮して、当時の価値観で筆者が書くタイ人らしさが本来のタイ人に即しているかどうかを推し量るのは困難だ。実情を知りたい。これは単純に興味本位だ。
ただ漠然と思うのは、「バンコク探検」にせよ「メナムの残照」にせよ、きっとこの時代のタイ人女性と、ルークケーオさんが描く現代のタイ人女性には明確な違いがあるのではないだろうか。勿論全ての女性がそうだとは思わない。男に振り回される女はいつの時代にも居る。けれど、性を相手に委ねず、自分の物として生きている女性の姿を描く作家が存在している事は、タイ人女性の今を知る上でとても重要なポイントであると私は思う。

翻訳されたスラングも面白い。きっと一昔前ならば「バカじゃねぇの」は男性的な表現で、「バカじゃないの」が女性的な表現だったと思う。けれどこの本に散りばめられたスラングは全て現代の日本人女性が使うある種乱暴な言葉であった。「クソが」も、「言えるわけねぇだろ」も、現代の日本人女性に即した翻訳であると思った。福冨さんの翻訳はバランス感覚が秀逸なのだと思う。


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