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これからタイ関連書籍の感想を述べる前にお伝えしておきたい事がある。
何故タイ文学の感想を一介の主婦が書くのかということだ。

遡って2年前の2020年、現在日本の一部でもかなり盛り上がっているタイBLというジャンルに出会った。当時はコロナ禍が最も深刻だった時分、今みたいにこの新型のウイルスについては積み上げられた情報もなく、医療従事者の方々も精神をすり減らして右往左往していた。先の見通せない世界の閉塞感の中において、当時九州のど田舎に住んでいた私は東京や地方都市で報じられていた感染者数に何処か対岸の火事と思いつつも、自分の生活に一杯一杯であった。
突発性難聴になった原因はこの社会の閉塞感が原因ではなく、ましてコロナ禍への絶望からくる物でも無い。ただただ当時、我が家の将来を左右する大切な試験を夫が控えており、それに落ちてしまうと我が家は子供二人を抱えて先の展望が見通せない生活を強いられてしまう。そんなストレスからくる難聴であったと今、分析する。

耳が聞こえない。これは私にとって長年のテーマである。
幼少期に酷い中耳炎を患い、手術をした。手術前、看護師に「いちごとメロン、どっちの香りの麻酔がいい?」と聞かれ、いざ手術代の上で「いちご」と答えたらメロンを嗅がされ、「いちごって言ったじゃん」の「いちご」を言い終わらないうちに意識が遠のいた。気づいたら母が病室のベッドに付き添ってくれていて、涙を溜めながら「がんばったね」と労ってくれた記憶は幻か。私はただ寝ていただけで、頑張ったのは医者である。あまりに幼なかったが故に、そう思ったか思わなかったかまでは覚えていないが、何せ私はそこから準障害者として生きていくことになる。

準障害者、そんな言葉は日本にはない。私が作った造語である。
私の耳は聞こえている。けれど、健常者ほどは聞こえていない。医者に言わせると、ある音域が壊滅的に聴こえていないとか。しかし障害者に認定されるほどではない。なんとも中途半端な、社会のサポートを受けられるでもない歪みにすっぽりとハマってしまった人間が私であった。
障害者として生きていくには症状が足りず、健常者として生きていくにはハンデがある人生を呪った時もある。他者は私を健常者として見る。会話を何度も聞き返すと嫌な顔をされる。だから必死に健常者のふりをする。聞き取れない時はわかったフリをして笑う。マジョリティにしがみつく。尖っていた若い頃などは必死だったように思う。書いていて思ったが、私は自分で思っていたよりもこの個性に疲弊していたのだろう。

突発性難聴、これは晴天の霹靂であった。
まさか今以上に聞こえなくなってしまう事態に陥るだなんて思っても見なかった。中途半端に聴こえない今の状態から徐々に聴こえなくなり、30〜40代過ぎから補聴器の世話になるだろうと言う医者の予言を気力でカバーしていた私である。

コロナ禍の受診控えが叫ばれる中、私は脇目も振らずに二件の個人病院にかかった他、鍼灸治療にも縋った。まさに取り乱していた。聞こえない世界は嫌だと思った。どうか元に戻って欲しいと心底願った。障害を受け入れて生きていく選択は当時の私にはなかった。出来る事なら我が子が成長して大人になった時の声を聴きたいと願った。医者の処方するクソまずい液体の薬を従順に飲んだ。しかし改善の傾向は見られない。

何度目かの受診日、ふと目についた女性週刊誌を手に取る。これが人生の転機だ。今、自信を持ってそう言い切れる。産まれた時に与えられた条件で人は生きていかねばならない。けれど幸運の取捨選択は自分の采配に委ねられる。私は女性週刊誌に掲載されていたタイBLの記事を拾った。チープな言い方であるが、私にとってまさにそれは運命の出会いだったのだ。

アマゾンプライムで見ることができると書かれてあった「Love  By Chance(以下LBCと表記)」というタイトルをスマホで早速検索してみると、果たしてそれは本当に出てきた。受診の順番が来ても何処か心は上の空であった。早く観てみたい。難聴もそっちのけで気ばかりが急いた。夜、子供が寝静まった頃に早速テレビにミラーリングして試聴したLBCは、何気ない映像の中にタイの南国の風景が溶け込んでいた。そうだ、私はアジアが好きだったのだ。

私のアジア遍歴は旅行好きの方からすれば鼻糞程度のものである。滞在日数は一週間以内の普通の旅行の枠を出ない。安宿に泊まったりなどの冒険もしない。けれど私は学生時代、アルバイトでお金を貯めてはアジア各国に旅行していた。お金がたまらない時は沖縄でアジア欲を満たしていた。なんなら一ヶ月ほど八重山の離島でリゾートバイトをした程だ。私の産まれ住む北海道は歴史が浅く、日本というアジアに住みながらアジアらしさを探すのには少しばかり苦労が要った。人は無い物ねだりが得意である。だからだろうか、住む土地には無い蒸せ返るような熱気と狭小さ、混沌を目の当たりにした私はすっかりアジアにハマり、それらを旅に求めたのだった。

タイドラマは何処か緩い。時に伏線を回収しない。日本みたいに起承転結を無視する帰来がある。けれど凄く魅力的に映る。その理由はなんだろう。沼にハマりたての頃、私はよくハマった理由を考えていた。本来私は二次元オタクかつ商業BLジャンルに属する所謂腐女子というやつで、ジャニーズや三次元アイドルには全く興味のなかった人間だ。息子を産んでからは我が子が平野紫耀に見える時もあるが、では平野紫耀を推すかと言われると答えはNoである。そこにBL臭を感じないからだ。

あるコラムでは視聴者とドラマの間に上下関係が出来るとヒットしやすいと書かれていた。視聴者が話の展開にツッコミを入れたり、下手な展開を揶揄ったりと言った、圧倒的上からの視線が必要らしいというのは一つの意見だ。では私はタイBLを上からの視線で観ているのだろうか?心に問いかけるがどうもしっくりこない。LBCで終わらなかった理由、つまり私がタイドラマのリピーターになった理由は、LGBTQの存在が当たり前の事として受け入れられていたからだ。その反面、ドラマではLGBTQにヘイトの感情を投げる人物もいる。いよいよタイという国が分からなくなって来た。私がかつて一度だけタイに行った時に得たイメージは、王様、カトゥーイ、野犬、貧富の差である。特に貧富の差は日本の何も知らない小娘からしてみると衝撃だった。分からないものはもっと知りたい。これが原動力なのだろうと思う。オタクは大なり小なりこの原動力を以て掘り下げるものである。

タイドラマ全体を眺め、俳優の売り方を眺めていると、彼らタイ人はどうも先の事をあまり考えていないのでは無いだろうか?と思う時がある。何せ日本人的感覚で彼らを見ていると、なんとも緩いのである。南国特有の「なんくるないさ」的空気をうっすらと感じる。益々タイ人に興味を持った私はタイの本を読み漁った。ドラマの描写で当たり前のように出てくる托鉢の風景は彼らの信心深さを物語る。しかしその反面、どうも即物的な何かを求めているかのように思える言動も見え隠れする。「タイ仏教入門」という本を読むと、タイ人の仏教に対する在り方が分かりやすく書かれており、彼らを理解する上で必須の上部座部仏教にアミニズム信仰+南国特有のマイペンライ精神がまるでタイ料理のように複雑に絡み合っているのを垣間見た。タイ人とはしなやかに全てを包括する民族なのだろうか。タイのドラマを見ながら私は「ありのままでOKなんだよ」と言われているような気がして、ふと肩の力が抜けたのを確かに感じた。夫の試験が落ちたとしてもマイペンライ。難聴が治らなくてもマイペンライ。流石に来世があるさ!とまでは開き直れなかったけれど、LBCの何話目かを視聴中、自然と難聴は治癒していた。こうして私は彼らの紡ぎ出す物語の虜となったのだった。

そうとなればもっともっとタイを知りたい。そう思うのは自然な欲求であろう。何せ私は筋金入りのオタクである。

「タイ人と働く」と言う本で紹介されているタイ人は、日本人となんら変わらぬ同調圧力のある民族である。いや、日本は島国ゆえ視野が狭いが、詰まる所人間が居て、コミュニティが出来れば、きっとどの地域に住もうとも、どんな言葉を喋ろうとも、同調圧力というのは存在するものなのであろう。自由の国アメリカにだって同調圧力はあるらしい。
タイ社会のリアルを知るために、彼らの使う言語を学べばきっと彼らの思考回路の片鱗を掴める筈だと思い、タイ語を習い始めたのは2022年4月の頃だ。なんとか読めるようにはなってきたが、まだまだ喋れる・聞き取れるレベルには至っていない。言葉もさることながら、もっと彼らを知るためには、言語の他に「タイ人が書いたタイの本」を読むに限ると言う答えを私は導き出した。

しかし無いのである。

ふと思いつきでタイ文学を読んでみたいと思った主婦が、タイ文学を気軽に探したくらいでは出てこない。私は検索のプロではないし、広いネットの海から何を検索ワードに入れたら良いのかも途方に暮れてしまった。タイの作家など、名前の手がかりもない私だ。ハマりたての人間にとって、検索結果に出てきたその名前がタイ人であるかどうかすら当初は判断がつかなかった。そこでメルカリの出番である。私の身近で活躍してくれる有難いこのサービスは私の迷走を受け止めてくれた。メルカリのソート機能のおかげで、私はメルカリでタイ関連本を購入出来た他に、メルカリで見つけた本を新品で購入したり、メルカリで見つけた本を図書館で借りたりもした。特に私の住む地域の図書館には大同生命国際文化基金が出しているアジアの現代文芸シリーズが潤沢にあった。けれどこれには盲点がある。全てが昔の話なのだ。勿論タイを知るに当たって彼らの辿った歴史の軌跡の片鱗を読むのは彼らを理解する上で欠かせない。タイ人の根底に渦巻く権力への怒りはヒシヒシと感じた。しかしその感情は現代に於いても継続しているのだろうか?そうならばどのレベルで?一般市民はこの二極化にうんざりしていると言うコメントもどこかで読んだ。どっちが勝ってもいいから政局を安定させて欲しいと願う人が大半だとも読んだ。それは本当だろうか?命をかけてデモに参加する人がいる。社会風刺のBLが作られる。現代に即した彼らの社会を垣間見るためには、ここ10年以内に出た本を読みたいと願う私であった。

そんな折見つけ出したのが福冨渉さんという方である。私にとって非常に有り難い存在だ。まさに求めていたもの!早速Twitterで彼をフォローさせていただいた所、彼のライフワークなのだろうか、タイで注目の作家さんを日本語訳して販売して下さっていると言うではないか。数冊ほど買い求めて早速読んで見たところ、内容は勿論のこと、日本語の軽やかさが爽かだった。くどくないのである。スッキリと読める。私はこの本をまだ原文では読めない。けれどもし私がこの作家さんだったなら、この文体に翻訳してくれた事を感謝するだろうなと、私自身が趣味で小説を書く身としてそう思った。

中国で村上春樹が流行っていると聞いたのは数年前のことだったか。彼の文体を私はあまり得意とはしておらず、(内容への批判ではない。文体が苦手なだけである)「1Q84」は辛うじて読み切った。かつて「ノルウェイの森」はリタイヤしてしまった。彼独特の日本語の言い回し、使い回しを中国ではどのように訳されているのか興味を持った。彼の実力はさることながら、きっと訳者の力量も問われるのだろう。若者にウケるエモい文体なのだろうか。はたまた原文のように何処か小難しさを孕んでいて、ある一定の知識層でなければ理解ができないステイタスを含み、これを読んでいる事がオシャレのアイコンになり得るような文体なのだろうか。

私は福冨さんの翻訳に普遍性を感じた。きっとどの時代に読まれても古くならない文体だ。…と、一主婦は思う。今後も彼の翻訳した本は購入したいと思っている。

そんな訳でダラダラと書き散らしたが、ただの主婦が魅了されたタイという国の表と裏、そして深さを探求するために、今後タイ文学やタイ関連の本を気が向いた時に読書感想文という形で公開していきたい。かつての自分なら読んでも感想など書かずに終わっていた。どんなに感動したとしてもだ。けれど趣味で小説を書き始め、コメントを頂ける事がこんなにも嬉しくやる気に直結する事を学んでしまった私は書かずにはいられない。その熱意とモチベーションの一助になる事を心底願う。

最後に、私はなぜか「そうなって欲しくない」という事が起きてしまう。そんなことを言うと心配させてしまうかもしれないが、大それたものではない。ほんの小さな日常の一コマで、零したくないな、とか、破れて欲しくないな、とか思う時に限って何処かにひっかけてしまうのだ。そして今回購入した福冨さん翻訳の本のうちの一冊である「花、ドア、花びん、砂、大きな木」にもそんな小さな災禍が降りかかってしまった。濡れて欲しくないな、と思いながら洗濯機のカバーの上に置いたこの本になぜか運悪く手が引っかかってしまい、洗面所の水滴の上に落ちてしまったのだ。慌てて救い出し、必死にタオルで拭ったのは言うまでもない。アナログ世代のオタクである私は紙媒体が何より愛しいし、現代的で洗練されたデザインのこの本を大切にしたいと思っている。本一冊が出来上がるまでに携わる全ての方に敬意を表し、表紙を濡らしてしまったことを今ここでお詫びしたい。

ノブナガ

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