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「ラーゲリより愛を込めて」を舞鶴出身で祖父が抑留されていた私が見て

先日、「ラーゲリより愛を込めて」を見てきました。この映画についてレビューするのはとても難しいです。何故なら私は最後の引き揚げ港であった舞鶴で産まれ育ち、そして祖父がシベリアに抑留されていたからです。

映画を見ることが好きで来年100回になる映画について語る会を毎月やっているので、所謂「収容所もの」(今回はタイトル名となっているロシア語での「ラーゲリ」)について、描かれ心を捕まれる映画を見てきました。子供に悟らされないようにと明るく収容所で振る舞う父の映画「ライフ・イズ・ビューティフル」、こちらの判断力もうやむやにさせるほどの収容所の負の迫力の「サウルの息子」、フランスにも言えなかったユダヤ人への収容所送り過去があり、それからの未来への選択を描く「サラの鍵」など、素晴らしい映画はたくさんあります。

それから比べると、この日本映画「ラーゲリより愛を込めて」は、「収容所もの」として見るとそこまでの完成度があるとは言い難いです。もっとエモーショナルになれるところが欲しかったと思います。この映画は、満州に妻と子供3人で暮らしならが一等兵として過ごしていたロシア語を話し、ロシア文学を愛していた二宮和也くんが演じる実在の人物、山本幡男さんが、終戦間際にロシア軍に捕まりシベリアの収容所に抑留されるところから物語は動き出します。

インテリの山本は収容所では、元一等兵ではあるもののロシア人の通訳をしていて重宝され、人間としての心根を持ち、相手がロシア人でも、収容所を取り仕切っていた元日本兵将校に対しても自分の魂や正義に反すると感じた時は暴力を受けても自分の主張を曲げない人です。その温かな人柄と彼の編み出す収容所の人たちを和ませるアイデアとユーモアと博識が収容所の仲間達の凍てついた心を解かしてゆく。。。そして。。。という物語です。

先に伝えたように、世界の素晴らしい「収容所もの映画」と比べると物足りないと感じることはあると思います。でも、この、シベリア抑留の歴史を全く知らない人もいるこの令和に、東宝がビッグバジェットで二宮くん含めスターを使って今年のお正月映画にこの映画を作ってくれたことに感謝をしたいと思っています。

私は母方の祖父が満州の市役所で公務員として働いていました。日本で生まれた私の母を連れてハルピンで暮らしていて、その後、母の妹もその家で生まれました。その頃は満州の現地の方にお手伝いさんとして来ていただきそゆとりのある生活をしていたと聞いたことがあります。これに対しては今から考えると満州におられた人たちには辛い思いをさせたのであろうとも思い申し訳なく思っています。

終戦前にロシア軍が攻めてきて、祖父はロシア軍に連れて行かれたと、その時、子供だった母と叔母を連れて祖母は日本へと引き揚げて言ったと聞いてます。祖母はロシア軍に何もされないよう、男のような格好をして母と叔母二人を連れて逃げていたようなのですが、その時に若いご夫婦が大変でしょうと叔母を背負って逃げていただいたらしく、そのおかげで母と叔母は日本へ帰ることができたそうです。そのご夫婦の名前と住所を祖母は知らず、その後帰ってからお礼を言うことができなかったと聞いていますが、その話を聞くたびにそんな大切な名前を忘れるなんて、記憶できないのは何故だったんだろうと悲しくなり今もその気持ちは継続しています。

その後、祖父は自分の祖国であり故郷でもある舞鶴に引き揚げたらしいのですが、母も叔母もその頃のことをあんまり覚えていないのです。これは、まだ小さかったと言うのもありますし、引き揚げ後、祖父が抑留について寒かったこと以外を全く話さなかった事から無理もなかったのかもしれないと思います。舞鶴に帰郷した祖父はその後、舞鶴市役所に定年まで勤めました。満州の役所で勤めたことやシベリア抑留の間の勤労に関しては、しょうがないとは思いますがキャリアには加味されず年下の上司に仕えたりしながら公務員生活を終え、その後は庭いじりと畑仕事を愛して亡くなりました。

今回、ある「ラーゲリより愛を込めて」のレビューを見てはっと思ったのは、シベリア抑留について何も語らなかった祖父が痴呆症になってからその惨状を語るようになった事を思い出したというお孫さんのツイートでした。あの頃の日本人と一括りにはできませんが、そんな自分の辛かったり話したくない事象について何も語らない人たちが多かったんだろうと思います。

日本人へのシベリア抑留が、あの頃のアジアへの植民地化や野蛮な行為についての代償としてそれは仕方がない、と思っている人たちがいるのもわかります。それほど、日本兵に対して辛い思いをした人たちがいて、その行為について謝罪を続けないといけないのもわかってます。

でも、一人の市井の男が戦争へと突き進む大きなうねりに抵抗できないのもわかりますし、流されてゆくのも仕方なく、そこで戦死された方もいて、このように抑留された人達もいたのだろうと思うのです。私もその時代に生きていたら、政府へ言いたいことがあっても反抗もできず導かれるままに特攻隊になっていても不思議ではないと思います。

日本人として戦争で傷ついた人たちへの謝罪を続けるしかないとは思うのですが、このシベリア抑留には「祖国に忘れらていた」という悲しさがつきまといます。この映画を見て何かを感じた人には、私の故郷にある、舞鶴の舞鶴引揚記念館に一度訪れてほしいと思います。

昭和20年(1945)10月7日、引き揚げ第一船「雲仙丸」が入港してから、13年間にわたり66万人の引揚者を温かく迎えたまち舞鶴。戦後の第一歩をしるした新たな出発点として「戦後復興のふるさと」ともいえる地となりました。

舞鶴引揚記念館H Pより

舞鶴の引揚記念館には、ラーゲリを再現したものや、岸壁の母、その頃のニュース映像などたくさんの展示がありますが、訪れて一番激しく心を動かされるのが、ラーゲリから送られた家族への葉書です。小さな葉書、今の葉書の半分ほどのスペースに鉛筆でびっしりと家族への想いが綴られた文章を読むと映画にも葉書を書く収容者が描かれてましたが、その行間に書けなかった思いを感じ、遠くシベリアから親しい人たちに禁じられた言葉を避けつつも伝えたいとの苦心と溢れる感情が書き綴られていて、心が揺さぶられ涙が出ます。

私自身は祖父から全くシベリアの事を聞いたことがなく、母や叔母からのまた聞きだったので、その後、引揚記念館で見せてもらった事からの推測が多いのですが、シベリア抑留された方々の一番悲しかったのは、違法に捕まえられ、戦争が終わったのにそのまま捕虜として極寒のシベリアの土地で50万人を超える人たちが強制労働をさせられてその日1日を生き延びるしかなかく、それを日本本国ではもはや戦後ではないと忘れ去られ、最終の引揚船が舞鶴に帰って来れるまで終戦から11年も経ったていたと言うこと。忘れられる事こそが一番希望を失うことではないでしょうか。

この映画の主人公の山本幡男さんは言葉を大切にした人だったそうです。ロシア文学を愛し、俳句をラーゲリの同胞に教える人でした。その山本さんが最後に帰郷できない自分のために、同胞の人たちが遺書を書いてほしいと友達から言われるのはすごく共感できます。山本さんのその言葉たちはどのように伝えらえれたのかは映画を是非鑑賞してほしいと思います。

そして、引揚て来られた人々の言葉たちはユネスコ世界記憶遺産として登録されています。

舞鶴引揚記念館には、シベリアの地で使用したコートなどの防寒着をはじめ「引揚證明書」などの文書類など全国から約1万6千点の貴重な資料の寄贈を受け、常設展示にて1000点を超える展示をおこなっております。

平成27年(2015)10月10日に収蔵資料のうち570点がユネスコ世界記憶遺産に登録されました

舞鶴引揚記念館HP

舞鶴あたりに来られる機会のある方はぜひ一度訪問して、シベリアでダモイ(ロシア語で帰国)を夢見ながら、祖国から忘れたれていた人たちの悲しみを感じていただけたらと思います。


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