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鳥栖両親殺人事件 教育虐待への復讐

2つの新聞社からのインタビューがありましたので、そのためにまとめた文章をシェアします。実際に話した内容は、これよりもはるかに多く、それぞれ約1時間を超えました。

教育虐待とは何か、教育熱心とどう異なるのか、なぜ教育虐待が起きるのか、子どもの心情はどのように解釈できるか、親はどうすればいいのか、どのような社会になれば、教育虐待は防げるのか。などについて話しました。

記者さんには、メディアの役割として、適切な記事を書いてほしいと願い、丁寧に話させていただきました。多くの人が読む媒体がどのように記述するかは、とても大切なことだと思うからです。

今日は、幅広く話した内容のすべてに触れる時間の余裕がありませんので、とりあえず、判決直前のコメントとしてあらかじめ記述しておいたメモを、ここに挙げておきます。

教育虐待とは、
 親による教育やしつけを名目とした、
    子どもの受忍限度を超える、
 心身に深い傷を与える、ひどい扱い。
のことを言います。

親にどれほどの愛情があったとしても、それが一方的、強制的なものであれば、子どもにとっては苦痛であり、それが十年以上も続けば、耐えがたいことでしょう。

本事件の被害者である父親は、子どもを自分の所有物のように考え、自分の理想に近づけるようにしようとし、それがうまく行かない場合(それがほとんどいつもであったと思われます)に、感情をエスカレートさせていました。村中直人氏の言う「叱る依存」状態であったと考えられます。

依存から抜けられない状態になっていた被害者も又、心理治療の対象となるべき人物であったのでしょう。兄弟による「その父親も又厳しい人であった」という供述からは、経歴詐称に象徴されるような「教育に関する複雑な心理、深い傷」を自身が負っていたと考えられます。

父親は、子どもに親を殺したいと思わせるほどの行為を長年にわたって行っていました。
殺人という罪状によって、長期にわたって刑務所で過ごさなければならないような人生を子どもに選択させるほどの「腹の底から湧き上がる恐怖」を与えて、子どもを「自殺するか親を殺すか」の二択に追いつめる崖っぷちに立たせました。
子どもは継続的な心身へのストレスによる複雑性PTSDの状態であったと思われます。

事件は、  
長年、NOが言えない力関係の中で、継続的に虐待行為が行われてきたことに対する復讐心によって起こりました。

被告は、父親が経歴詐称していた九州大学、に入ることができ、一人暮らしできるようになりました。
それにもかかわらず、父親はまだ自分が子どもをコントロールできる状態を維持しようとし続けました。合格→入学の時点で、関係性の逆転が起きる可能性があったのですが、両者の関係は逆転せず、父親が子どもを叱責するという状況が続いたのです。

被告は、せっかく父親による恐怖から逃れられると思ったのに、長年の入り組んでしまった関係性を絶つことは難しく、ずるずると同じ関係性をひきずってしまいます。父親を試すかのように、成績を下げたのです。DVからなかなか離れられないような妙な依存も生じていたのかもしれません。蛇に射すくめられたカエルのように、再び父親の叱責を受ける状況を作ってしまいました。病理の世界です。

また、長年、子どもを苦しめる父親を押しとどめ、自分を守ろうとしつつも、結局、救ってはくれなかった母親に対する無念な気持ちがあったと考えられます。父親に復讐をしようとしているまさにそのときに、父親の前に立つ母親に対して、殺意というよりも、どうして自分の味方になってくれずに父親を庇うのかという哀しみに近い気持ちを抱いたのではないでしょうか。つまり、「人が死ぬ危険性が高い行為を、そのような行為であるとわかって行った場合」という殺意の定義に照らしてみると、むしろ、父親の殺害を考えたときに、「母親が自分の苦しみを理解して味方してくれる」という希望を捨て切ってはいなかったのではないか。それに応えなかった母親に対して、絶望の気持ちを持ったのではないか。父親への恐怖を考えると、「やむを得ない、ここはやり切らなければその先はさらに地獄が待っている」と思って、事に及んだのではないかと考えられるのです。

処罰については、
私たちは、本件の加害の事実、被告である子どもの行為を決して許容することはできません。しかしながら、被告は、父親から継続的に深刻な被害を受けていたことに鑑み、長年の被害者でもあった被告に対して、罰を与えるよりも、心の回復を図り、社会復帰できる環境を与えていくアプローチをとる必要があるのではないでしょうか。

幼かった頃から、被告を支援する人はいたのでしょうか。
養育の過程で、家族の囚われの身になっていた被告が、被害者も含めた周囲の人たちを苦しめることなく、自分の人生を守るために取り得た方策はあったのでしょうか。あったとしたらどのようなことであったでしょうか。それを被告は知り得たでしょうか。
検察は、被告のような立場に置かれた者が、その方策を実際に実行できるという証明をしなければ、被告を厳罰に処するという主張はできないのではないかと私は思います。
少年であった被告を小学生の頃から誰か大人が助けたでしょうか。このような状況に置かれた子どもたちに対して、日本社会は救済措置をとっているでしょうか。一人、被告にその責任を負わせるというのは、温かい社会の欠損ではないでしょうか。
また、被告が、父親以外の他者に対してさらに殺人を行う動機があるとは考えられません。無差別殺人ではなく、苦しみから逃れるためという明確な目的で行った殺人であるからです。彼の立場に立てば、自分のこれからの人生を考えたときに、生き地獄から抜け出すための正当防衛であったということができるのではないでしょうか。

明日(15日)の判決がどうであれ、刑務所の中であろうとそうでなかろうと、今後、深く自分の人生を考えたいと言っている被告に、つきあい、寄り添う存在が、長期間にわたって必要であると考えられます。

【争点】
1 母親に対する殺意が認められるか
 認められない。
2 刑罰を科すべきか、保護処分にすべきか
 保護処分(適切なフォロー。下記)
3 刑罰を科す場合の量刑(どれくらいの重さの刑を科すべきか)
 量刑というよりは、どのように自分の人生をリフレクションし、社会に貢献する生き方ができるかを考える時間として、どの位の時間と人的支援、経済的支援等が必要かという観点で、検討することが必要ではないか。

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