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教育虐待をどう捉えるか

2023年4月9日、フジテレビMr.サンデーで「教育虐待」が特集されました。
特集にあたって、私も「教育虐待に関して発信している有識者」としてインタビューを受け、情報提供し、放映にあたって「教育虐待」をどう扱ってほしいかという希望を時間をかけてお話しさせていただきました。ディレクターさんは私のお話ししたことをきちんと受け止めてくださったと思います。私が画面に出たのは数十秒でしたが、番組の流れに関与した者として、こちらで、お伝えすべきことがあると思い、急ぎ、書きたいと思います。

私の紹介で番組に出てくださったのは、後藤誠子さんとその次男の匡人さん、そして、教育虐待をテーマに修士論文を書き上げた女性です。

放映後、ツイッターで、後藤さんに対する批判の声が上がりました。
「加害者が、被害者と一緒になって、笑顔で番組に出るとはなんということだ」「自分の売り込みか」というのが、多くの批判の骨子です。
それに対して、第三者の立場から、私が反論したいと思います。


虐待の加害者に対する私の立場は、一貫して、

加害に至るにはワケがあり、そのワケを一般市民が理解しなければ、虐待はいつまでもなくならない。

というものです。

例えばそれは、以前こちらに書いたようなことです。


そして、その理解を進めていくために、後藤さんは自分が非難の矢を浴びることを覚悟して、笑顔で番組に出てくださったのです。

あの番組を見て、教育熱心な母親たちは「私も多かれ少なかれあのような心境になったことがある」と思ったのではないかと思います。

そして、後藤さんを盾にして、自分のその行為を「安全に」振り返り、考えることができたのではないかと思います。もし「安全」でなかったら、その時点で、自分の加害を無意識に否定したでしょう。

私はあそこまでではない、だから大丈夫、
 あるいは、
わたしは大変なことをしているのかもしれない、でも、出演者たちは笑顔で出ている、大丈夫、今からでもやり直せる、

と思える状況のなかでこそ、母親たちは、初めて、「これから」自分の行為を振り返り始めることができるのだと思います。

私は教育熱心であって、教育虐待なんてしていない、そう思いたい人たちから、私は常に質問を受けています。

  その違いは何ですか?私は大丈夫ですよね?と。

その質問は、本来、私ではなく、自分の子どもに確認すべき質問です。
でも、子どもは親の期待通り、「虐待ではない」と答えるでしょう。
匡人さんが当時、全く虐待と認識していなかったように。

このコマーシャルの話はご存じでしょうか。


ランドセルの色ですら、親に忖度して、親を幸せな気持ちにしたい、親にかわいがられたいと思うのがいまどきのすなおな子どもたちなのです。
(子どもの言うがままにするのがいいという主旨ではありません。勉強に関してもそうです。念のため)

親も子も周囲も気がつけない。特に「教育熱心がいいこと」「そのためには多少のことも許される」「我慢は仕方がない」と考えられている日本の中では、気づけない。それが教育虐待です。

程度に差はあります。結果的に、子どもの学力があがって、良い学校に進学して、良い就職をして、心の中が幸せであるかどうかは別としても、世間的にはよい生活をしている、という人がたくさんいます。

だから、「そうすべきだ」という結論になりがちです。
理想論を言うな、という言葉も帰ってきます。

でも、それでも言わなければならないのです。

なぜなら、多くの子どもたちが大人たちからの継続的なPTSD(複雑性心的外傷後ストレス障害)にさらされて、そうであるということに気づくこともできないままトラウマに苦しみ、それが世代間伝達しているのが、日本の状況だからです。

特に日本において、とても理不尽な扱いを受けている多くの母親たちは、
自分自身がさらされてきたトラウマを抱えながら生きており、
それに気づくことすらなく、
子どもたちを育てる中で、トラウマを与え続けています。

ニュージーランドのアーダーン首相が、日本で生まれるでしょうか。
到底、そのようなことはないでしょう。
彼女には、子どもを虐待する必要性がありません。
子どもを一人でよく育てることを求められていないからです。
でも、日本の多くの女性たちは、
過酷な育児環境の下で、それを求められているのです。
そして、子育ての「失敗」を恐れ、
失敗したときに批判され、失意を味わうのです。


日本にはそのような「母親たちが教育虐待に向かうバックグラウンド」があります。
(父親による教育虐待については、上記の名古屋の事件のところに書きました。もう少しまた別に分析して書く必要があるでしょうが、今回は、母親による教育虐待に限定して書きます)

そのバックグラウンドを論ぜずして、個人を責めても、虐待は水面下に沈むのみです。

だから、そこで水面上に現れて、あえて自分の体験を語って下さった後藤さん親子の勇気は、ほめられこそすれ、非難や批判されるべきことではないのです。後藤さんに気づきを与えた匡人さん、そして気づいて変わり、周囲に語り掛けている後藤さん。まだ渦中にいる親子がたくさんいる中で、このお二人が一緒に番組に笑顔で出てくださったことの意義はとても大きいのです。

後藤さんの友人の言葉を紹介します。
「私は、誠子さん親子の笑顔に心が和らぎました。二人は本当に素敵な親子。知ってる人は知ってます。非難する前に、今 2人が笑顔で一緒に居ること、ここまで来るまでの積み重ねを知ろうとしてほしいです。あれほど辛い時期を経ても、笑い合える親子関係が築ける。そこが一番 大切な部分だと思います」

後藤さんが幸せそうにメディアに出ることに対する「やっかみ」は生まれるだろうなあと思います。私から見ても、後藤さんの躍進はすごくて、へ~~ここまで!!と思うほどです。

!!!でも、それだけのエネルギーがあるからこそ、彼女はこの問題を正面からとらえて発信することができているのです!!!

社会で活躍するエネルギーと実力を兼ね備えた彼女が、長く、岩手という東北の地の一家庭の中で「お母さん」として居て、そのエネルギーを一人の子どもに注ぎ込まなくてはならないと思いこんでしまったという背景の存在が、そもそもの日本の女性問題なのです。

今回、後藤さんに対して、非難や批判をする、ということは、
「自らの母親や女性たちに対する社会からの加害性、社会的マルトリートメントの存在を認識できない、残念な市民の行為」だと私は思います。

教育虐待をした個人が悪い、そういうことをした人間は一生、表に出てくるべきではない、笑ってはいけない、加害者は自分などとは違う非情な人間だ、あんなことはできるものではない、等々。

一度でも過ちや失敗があったら人間はそこで終わり、と刷り込まれてきてしまった方たちなのでしょうか。自分は絶対に問題は起こさないと信じているのでしょうか。

上記のような指摘をすること自体が、当事者を追い詰める加害行為だということにはなかなか自分では気づけないし、自分には人を追い詰める正当性がある、正義の糾弾であると信じている、良いことをしていると信じているところが、加害者の心理状況と同じだということに、私たちは気づいている必要があります。

そういう意味で、そう書きこんでしまう人たちを非難するのではなく、気づいてもらえるような発信や社会的活動をしていかなければならないのです。

自分が加害者にならないために、しっかりと後藤さん、番組、出演者たち、そして、私の問題提起を受け止め、一緒に考えてほしいと思います。

※ 教育虐待を受けていた、受けている方へ
 この投稿は、教育虐待の加害者を庇うという目的で書いているものではありません。大変な思いをしてこられた被虐待の方に赦すようにと説いているものでも、ましてや許せないあなたに問題があると書いているものでもありません。
 教育虐待という事象が日本からなくなるようにと思って、どうしたらそれを実現できるか、伝えていくことができるか、ずっと考え、対応してきました。加害者からも被害者からも話を聞き、個人で苦しんでいる人たちに、これは社会問題なのだということを伝え、社会全体が変わっていくようにと思って発信しています。
 その中で、あなた個人の経験や感情が無視されたり、ないがしろにされていいわけはありません。それは、活かされるべきものであり、あなたには、これからの人生を明るく歩んでいっていただきたいと思っています。
 番組の中で、被虐待の方が修論を書いたことが紹介されていましたが、あの方は、私の『やりすぎ教育』を読んで修論を書くことを決意し、連絡を取って下さって、実際にお会いして、お話をうかがって、アドバイスさせていただいた方です。とうとう書き上げた、というタイミングで、番組の話が来て、紹介させていただきました。
 概念があることで議論が進むのです。誰か個人を叩いて、非難したところで、その現象はなくなるでしょうか。私はこの事象をなくすために自分に何ができるか考えています。一つの事例が単に一つの事例として終わるのではなく、事象全体が日本の中でどのように起きているか、それに対して、私たち大人がどう予防していくかを考えています。
 ご無理がなければ、ぜひ体験やご意見をお聞かせください。
       takeda@jace-pom.org 
   次の事例が生じないように、一つでも解決していくように、そしてあなたの体験が昇華して活かされていくように、あなた自身がPTSDから抜け出せるように、できることをしていきたいと思っています。

※ 追記2

こちらを見ました。その感想です。


たぶん、これを見た被害者の方や、誠子さんを批判する人たちは、
教育虐待をした親が、反省して泣きの涙で自分を責める姿を見たいのではないか、それを期待しているのではないか、と思います。

私もどちらかというと、自分を苦しい目に合わせた(と私が思う)人には、反省してもらいたいと思います。だって自分はこんなに苦しんだのに、私を苦しめる原因を作った人が幸せそうなのは許せない、そういう心境です。
そうして、今さら何を言っているんだよ、という気持ちも持つでしょう。

(ここで私はもっと正直にならなければなりません。「あなたが意図しようと意図しまいと、あなたは私を傷つけてきて、私はずっと苦しんできて、いまだにこんなに苦しんでいるのに、どうしてあなたはそんなふうに笑っているのですか、私の気持ちを逆なでするようなことを言って、気がつかずに平気なのですか、メディアの取材を次々と受けて、得意そうに語っているのですか」という気持ちになった、多くの被害者の方たちの気持ちは、実は、体験の質は違えど、平気そうにしている私の気持ちでもあるから)

でも、匡人さんはそれを望んでいないようです。復讐とか、怨念とかではなく、むしろ、母親が、自分を離れて活き活きと楽しそうに生きていることを望んでいるようです。どうしてそんなふうに人を赦せるのか、お会いしたことがありませんので、まだわたしにはわかりませんが、きっと、親子の関係が、小さい頃から小学校までずっと良くて、基本的な愛着関係がしっかりしていたからでしょう。

だとしたら、それでいいのだと思います。それがいいのだと思います。

相手には相手の事情があったのだ。そしてもう相手は変わったのだ。
だったら、次のステージに行こう。そういうことなのだと思います。

あっけらかんと、知らなかった、わからなかった、気がつかなかったと言える。そして、わかってきた、見えてきた、と言える。それが誠子さんの、他の人が持たない強みだと思います。

誠子さんは、だからこそ、加害者と被害者をつなぐことができる位置にいるのです。加害者だからといって、涙に明け暮れて、日々自分のしたことで自責の念に駆られて暮らしていたら、次の人を救う活動ができません。たくさんの加害者が、自分の中に籠っていってしまうのを防ぎ、出ておいで、みんなでつながろう、これから学んでちゃんとしていこうと言えるのは、加害を認識しつつ学び続ける人ならではです。

被害者の観点からすれば、まだまだ不十分なところが目につくと思います。その発信によって「え?そんなに簡単に済まされてしまうものなのか、この長年の苦しみが?まさかそんなことはないよね」とむしろ傷つくことさえあるのではないかと懸念されます。私のこの文章を読んで、さらに苦しく思われるかもしれないと思うと、ためらいもあります。確かに、実際のところ、まだ加害者は学び続け、振り返り続け、何年か経ってやっとまた新しく気がついていく必要があります。これからです。始まったところです。

しかし一方で、番組が作られ、表に出てきてくださったことで、この議論が可能になり、人々が考え始め、そしてその活動が実際に多くの人を支えているのです。
活動を通して、いろいろな人に接しながら、学び続け、それをまた次の人に伝えていく。それができる人にはそれを続けてもらわなければと思います。

私は、NHK「うわさの保護者会」で誠子さんに出会ったのですが、彼女は常に、いろいろな人との出会いの中で、たくさんのことを吸収し、より多くの人に影響を与えることができるようになっていかれる思慮深い方です。

ふわふわと浮かれて笑っている方ではないのです。辛かった方こそ、誠子さんをウォッチし、よりよい活動をしてくださるように見ていて、サポートしていただけたらと思います。それが多くの親子のこれからのウェルビーイングにつながると私は思います。

そして被害者であった方には、自分と加害者であった親に起きたことを整理して、トラウマから自由になる道を探し、選んでほしいと思います。私も少しずつ書きながら考え、考えながら書いていきたいと思います。


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