見出し画像

7、激動の平成の幕開け  ⑦そして育児休暇へと

7、激動の平成の幕開け  ⑦そして育児休暇へと

せり出したお腹はとどまることなく膨らみ続けた。当然とはいえ、身軽な時に比べて機動力は落ちて来て、申し訳なく思う日々が続いた。歌舞伎に関しては勉強の期間と割り切って、必死に取り組んだ。

秋も深まり、12月中旬が予定日だったので、私は産休に入った。
予定日より4週間前と言う規定だったと記憶する。やっとの事で、あの満員電車から解放される事が出来た。出来るだけシルバーシートの前には立たないようにしていた。当時は妊娠ワッペンも無かったが、まあ、それなりに月数が進めば嫌でも、絵に描いたような妊婦だ。席を譲ってもらうと、複雑ではあったが、疲れた時には本当にありがたく、自分がスッキリした後には、今度は妊婦さんに席を譲ろうと、心に誓ったものだった。
産休に入ってしばらくは西荻窪の新居にいて、目の前の善福寺公園を散歩したりした。が、出産日が近づくにつれて、検診日の感覚も短くなって来た。主産後しばらくは実家に世話になる事を決めていたので、多摩地区にある実家に戻った。もう予定日近くの12月に入っていた事だったと思う。

それと前後して、文化部の同期入社のMが先に出産したと、連絡をくれた。なかなか大変だった模様で、改めて出産の厳しさを噛み締め、怖くもなった。絶対に大丈夫なんて言う事はありえないのだと。
出産日間際になると、子供を下におろすため、散歩を奨励された。ひたすら歩き、久々に戻った実家の近所の風景は、とても新鮮に感じられた。

予定日から遅れる事一週間、無事、長男を出産した。3770gで、髪の毛はふさふさ、瞳が大きくて真っ黒い赤ちゃんだった。こんなにお産とは大変なものなのかというのが正直な感想だった。しばらくは、いらないな。真剣に思った。
そこから新米ママの奮闘は始まり、なかなか出ない母乳、夜泣き、おしめの洗濯(真面目に布おむつに取り組んだ)、大きなたらいのようなベビーバスでのお風呂入れ(冬だったので、どんどんお湯の温度が下がって、差し湯するなど、とても苦労した)などなど。

それまでとは180度違う生活が待っていて、何もかも初めてでオロオロ、あたふた、毎日が戸惑いばかりだったが、とても新鮮だった。ふにゃふにゃな赤ん坊の身体を、首を支えながら抱き上げる事もドキドキだった。
とにかく会社に行かない事も、何となく最初は不思議だった。そんな事を考える暇さえなくなっていた。長男は良く泣き、病気がちの子だった。冬に生まれたからか、良く風邪を引いたり、突然戻したりするので、近くの大学の附属病院の救急窓口に、何度駆け込んだことか。こんなに新生児とは、病気をするものかと焦ったが、後に、長女、二男が生まれてみて、ああ長男だけが弱かったのだと言う事がわかったものだった。

両親にも世話になりながら、出産後一カ月検診も終え、母子共に健康である事が確認され、西荻窪に戻った。子供と向き合う大切な時間を過ごすと同時に、大学卒業後、7年間以上走り続けて来た後の、束の間の休息時間にほっとしていた。
当時はまだ、私の周りの多くの友人が結婚、出産退職をしていたので、稀有な例とはなっていた。自分としても、大学卒業時には結婚しても仕事は続けるが、出産では一区切りつけると信じていたので、その時の状態はとても不思議な気持ちがした。そして、続けたいと思える仕事に出会えた事に、物凄く感謝をしていた。

西荻窪の家は善福寺公園に面するアパートだったが、西向きだったので晴れているといつも公園越しの美しい夕焼けが見れて、長男と二人、と言っても彼はそうは感じなかっただろうが、本当に幸せな時の流れを感じていた。

だが、そんな時間も、そう長く続いた訳ではなかった。

<写真キャプション>
長男はその後、体験レポート取材に連れ出し、紙面にも登場した。これは、少し大きくなってからの記事ではある。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?