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3、警察まわり③ 夜討ち朝駆け、今は昔

警察まわりと言えば、夜討ち朝駆けのイメージが強いのではないだろうか。
私が担当したころには、方面では既に大きな捜査本部が置かれるような事件でも起きない限りは、方面担当記者クラブの人間は、もうそこまで、連日の夜討ち朝駆けはしていなかったように記憶する。
だが、警視庁の捜査一課担当や、二課担当、裁判所の検察担当などは違った。毎晩、自動車部の車を手配して夜な夜な出かけて行った。以前も書いたが、殺人、強盗、強姦、放火など凶悪犯罪が対象だ。捜査三課は盗犯、すなわち盗みやスリが対象。二課は詐欺など、知能犯。記者クラブの一課担当者は三課もカバーする。
当時の産経の一課担は、名物記者のOさん(敬称を付けてしまうのは、あまりにOさんとして有名過ぎたからである)以下3名だった。Oさんは、良く可愛がってくれた。ちなみにこんな略歴。Oさんのツイッターから拝借。新聞社カメラマン14年、記者21年。記者は警視庁捜査1、3課担当、定年前8年間は警察庁を担当した。退社後は警察大学で非常勤講師(21年3月まで)。警視庁生活安全相談員(21年4月まで)。武蔵野警察署協議会委員(27年5月まで)。警察ジャーナリスト、東京警察官友の会会員。警察が好き過ぎて、産経退職後も警察の仕事を。驚いた。カメラマンからの苦労人。お巡りさん、事件大好きな、本当に昔ながらの新聞記者を絵に描いたような人だった。著書に、『落としの金七事件簿 名刑事が遺した熱き捜査魂』、『落としの金七事件簿 警視庁取調官』、『日本警察が潰れた日』、『公安を敗北させた男 国松長官狙撃事件』。
時々、夜回り前に、
「メシでも食うべ~」
と、まわりの車で渋谷署まで迎えに来てくれて、ご飯をごちそうになった。居酒屋でも行くのかな、なんて思っていたらこじゃれたドイツ料理のレストランに連れて行ってくれたりした。熱く事件について語っていた。「サツカン、サツカン」と、親しみを込めて、唾を飛ばしながら。新型コロナウィルスの時代はちょっと対面は厳しい勢いだった。当時は、皆、お巡りさんはサツカン。その中でも、暴力団担当はマルボー、被害者はマルガイなどなど。

ついでに書くと、もう一人当時、大変特徴があった記者はM検察担当。実に濃い人だった。スクープ記者として、名を馳せていた。スクープを取るためには、何でもやると、やはり別の意味で昭和の記者タイプ。が、明言はしないが結構女性好きだったとの評判があり、夜回り時間なのに、合コンをセットさせられた思い出がある。30ン年も前、もう時効だから、よいかな。その後、バンコク特派員、那覇市局でも活躍されたが、『「電池が切れるまで」の仲間たち―子ども病院物語』という、著書を出された時は、正直、全くイメージが違って驚いた。もちろん、とても優しい人だ。
とにかく、当時の記者には特徴的な人が多かったように思う。

と、脱線してしまったが、いよいよ、自分にも夜回りする案件が回って来た。タレコミがあり、警視庁サブからの指示で、サツカンでなく、本人の元に夜出かける事になった。が、一応、これでも女性。さすがに夜遅くに、女性を一人行かせる事は出来ないという警視庁クラブの判断で、当時4方面、新宿署管内を回っていたMをサポートに付けてくれた。Mは大学の同期だったが、卒業と同時に入社しているから、年次で言うと3年上の先輩だった。祖父が政治家で、何かと言うと「俺にこんなことばかりやらせて、じいちゃんに言ってやる」などと、上司の理不尽な指令があると、良く文句たれていたが、頼りになった。
という訳で、2人で、そのアヤしい人間の家を訪れたが、当然、出て来ない。管内にある立派な家だった。裏からまわり、立派な家をガサゴソ。こちらが警察に捕まりそうだ。家には人の気配もあり、何とか話を取りたく粘ったが叶わず。数日間、諦めずにチャレンジし続けたが、結果は出なかった。
しばらくして、本社の某デスクから2人呼び出しがあり、本件からは手を引くようにと言われた。本丸直撃し過ぎだったのだろう。しかし、他に術がなかった。無念だったが、断念。その夜は、2人でやけ酒を煽った事は、言うまでもない。
そのMも、まだ40代の時、長野支局長在職中に亡くなった。じいちゃんの地盤を継いで、仕事を変えていたら、こんなに短命ではなかったかもしれないと考えると、残念だ。

という訳で、夜討ち朝駆けも人に頼ってばかりでは情けない。なので、自分なりに考えた。そして、迷惑がかからないよう、管内の副署長の話を聞くには、副署長の勤務時間終わりの帰り道に一緒に歩いて話をしたり、休日の副署長の出番の時に、一緒に電車に乗り込んだりして、話を聞いた。覚えているのは、ネタをくれた訳ではなかったがおじいちゃんのように優しかった成城署の副署長、事件のホシを当てに言って、なかなか重い口を開かなかったが、諦めた私の電車の降り際に、ボソっとホシ(犯人)の名前をつぶやいてくれた北沢署の副署長。ありがたかった。
皆さん、申し訳ない、名前を失念してしまって。当時の名刺ファイルは今でも捨てずに取ってあるのに、見つからない。捜索中。
渋谷署のC副署長は、「また、神津さん書いてるね!!」と、良く記者クラブに新聞を手にニコニコ駆け込んで来てくれた。

その様子に、いつも共同通信のよれよれジャケットのK記者は、大きながたいを揺すりながら、
「良いなあ、署名で書けて。俺達には、そういうのが無いからね。羨ましいよ」
と、声をかけられた。確かに通信社の記事は全国に回るが、署名はつかなかった。

一方、時事通信のT記者は、元気で、チリチリパーマでメガネを駆けて飛び回っていた。一番若いから、記者クラブで良く使いっ走りをさせられていた。
ある日、そんな彼と同じくらい若い記者が、もう一人やって来た。
「はじめましてT新聞のSです。これから、よろしくお願いします!!」

原稿を書く手を止めて、顔を見上げると、
「ええええええええ!!」

T新聞社に知り合いなんて、一人もいない筈なのに、背中を丸めた独特の風貌と、だらりと大きめのジャケットを引っかけるようなスーツの着こなしには、確かに見覚えがあった。

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当時、管内で浄化槽点検詐欺という、悪質商法の被害が相次いだ。管内を回っていて、得たネタだった。地味な案件だが、大きく扱って貰う事が出来た。自分が担当している間は犯人は捕まらなかったが、異動後、警察の地道な捜査で犯人は捕まった。犯人逮捕の一報は本当に嬉しかった。サツまわりは、こんなことの繰り返しだった。もっと怖い思いもしたが、また後日、改めて。

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