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初心忘るべからず 【週刊新陽 #41】

皆さんは、新年の抱負を立てますか。今年は立てましたか。

私の実家では、元旦に「おめでとうございます」と挨拶をしたあと、一人ひとり抱負を言うのが習慣です。

子どもの頃は、ピアノを上手になるとか、縄跳びで二重跳びできるように頑張るとか言っていた気がしますが、最近はもっぱら両親も私も健康に関することばかり(笑)。

でも今年は、「複業する校長として2年目。初心を忘れず、越境してきたからこそ得た経験やネットワークを新陽の生徒や教職員そして社会に還元したい。」と、仕事についての抱負を述べました。

ちなみに、この「初心忘るべからず」は室町時代の能役者で能作者の世阿弥の言葉で、私は「物事を始めた時の新鮮な気持ちに戻る(校長に就任した時の志を忘れない)」という意味で使っていたのですが、どうやら違うようです。ご存知でしたか?

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複業する校長もかつては子どもだった

子どもの頃、いわゆる枠にはまらない(はまれない)子でした。

今や家族ではネタになっている小学1年の時のエピソード。

近所に住む同級生がお母さんに「今日ものぶこちゃん机と椅子がなかった」とか「廊下に出されてた」と話すそうで、うちの母がそれを聞いて私に確かめると「うん。」と本人は気にしていない様子。

どうやら、授業中に落ち着きがなく椅子をガタガタする。そこで先生は(たぶん注意しても直らないので)椅子を取り上げる。椅子がなくなった私は今度は机をガタガタ動かし、結果、机も取り上げられる、ということだったようなのです。給食の時などは机がないと困るので、廊下に出された机と椅子で堂々と食べていたようで・・・。

3月生まれで体が小さかったこともあったかもしれませんが、何をするにものんびりマイペース。運動は苦手で動きは鈍く、何かと遅れをとることが多かったように思います。一方、本を読むことや調べごとが好きだったので知識が多く、勉強は得意。一斉に教えられる授業は退屈で、いつもきょろきょろ、うろうろしているような子でした。

そんな問題児だった私が(他にも色々エピソードはあるのですが・笑)、家が引越し転校したことでガラリと変わりました。落ち着いて教室にいられるようになったのです。

その理由は、転校先で出会った恩師・柳澤先生だったと思います。子ども一人ひとりを見て寄り添い、その子が活躍したり夢中になれる場をくれる先生でした。ピーマンが苦手で「みんなも好き嫌いは一つだけね」と言う人間味あふれる先生でもありました。

おかげで私は、私のまま成長することができました。もし柳澤先生に出会えていなかったら、何かレッテルを貼られてしまったり、あるいは学校に行かなくなったりしていたかもしれません。

「みんなちがって、みんないい。」

「みんなちがって、みんないい。」はよく知られた金子みすゞの詩の一節です。

『私と小鳥と鈴と』

私が両手をひろげても、

お空はちっとも飛べないが、

飛べる小鳥は私のように、

地面を速く走れない。

私がからだをゆすっても、

きれいな音は出ないけど、

あの鳴る鈴は私のように、

たくさんな唄は知らないよ。

鈴と、小鳥と、それから私、

みんなちがって、みんないい。

この詩から感じるのは、「私」を中心とした個性尊重ではなく、「私」と「あなた」さらには人間にとどまらず鈴も小鳥も、みんなちがって、みんないい、という金子みすゞの捉え方です。

これは、新陽で大切にしていきたい「みんな多様性の一部」という考えと近いと思います。

先生など大人たちが「一人ひとり違って、いろんな子がいて当たり前。」という前提で子どもと接し、子ども同士が「自分は自分。あの子はあの子。」と思えたら、学校や社会はもっと居心地の良い場所になるのではないでしょうか。

違うみんなが一緒にいてどうやって幸せに過ごせるか、それを経験し、学んで、社会に出ていくための場所が学校だと思うのです。

昨年末、北海道新聞の高田記者の取材を受け、『札幌で高校校長、東京で会社社長』という記事で取り上げていただきました。(写真は2021年12月18日朝刊「ひと」より)

どうしん20211218写真

そのインタビューでも「転職や学び直しは当たり前の時代。社長として得られる経験を生徒に還元したい。」と言いました。

それは、これまでの様々な業種での経験や人脈を学校に持ち込むことだったり、STEAMなどの新しい学びやアートのプログラムを紹介することだったり、あるいは、私自身の越境するキャリアから多様な生き方・働き方を知ってもらうことなどを通して還元する、ということです。

そしてこれこそが、私が校長になった理由であり、もう少し遡ると自分の仕事の軸足を教育に置こうと起業した理由です。

以下は、私が代表を務める会社のビジョンです。

多彩能*とは、一人ひとりが持つ彩り豊かな能力、持ち味のこと。We-Steins(ウィーシュタインズ)は、多彩能が輝き合う世界をめざして『学びの多様化』に取り組みます。
*「多彩能」はウィーシュタインズ株式会社の商標登録です。

好きなことや得意なこと、ものの見方や表現の仕方は、みんな違って当たり前。ひとりの中にもいろいろなキャラクターや能力がある。

みんなそう分かっているのに、学校という教育現場では「枠にはめる」ことや「できないことに目を向ける」ことがまだまだ多いように感じます。そしてそれによって、自分で考えるのをやめてしまったり、自信がなくなったり、大人や周りの空気を読みすぎる子たちがいます。

多様な視点で学校を見つめ直す

話を戻して、小1の担任の先生が悪かったと言うつもりはありません。むしろ今思えば、注意しても悪びれる様子もなく廊下で給食を食べている児童はさぞ指導しづらかったろうと申し訳なくさえ思うのですが、その先生は「みんな一緒にさせなくてはいけない」「1年生(小学生)になったらこうあるべき」のような考えを持っていたのではないか、というのが私の仮説です。

むしろそういう使命感のようなものが、あれから40年近く経った今も学校にはまだあって、そしてずっとそこにいる先生たちはそのことに疑問を持たないままだったり、保護者からそれを期待されたりしているのかもしれません。

だから、学校外にいた私が教育に関わる意味がある、越境してきた私が校長として違う視点を持ち込みたい、と考えています。

学校での当たり前に「ちょっと待って。それってほんとにそう?」と疑問を投げかける。それが私の役目です。

ずっとやってきたことも、あらためて「なんでやってるんだっけ?」と考えてみると、実はやり方を変えたほうがよかったり、やめてよかったりすることがあります。これは学校だけではなく、企業や地域社会でもそうですよね。

ちなみに、私の価値観も自分が歩んできた45年間によって出来ていて、いろいろ偏っているはずです。だから意見を伝えるときには、事実と解釈(自分の感情)を分けるように気をつけたり、自分だけではなく様々な知り合いの意見をもらったりもしています。

それから、そこでは当たり前にやっていることが実は他から見たら「すごい!」こともあります。それも、問いかけによって気付く価値です。

特に新陽は、学校外から見ても、学校としても、面白い取り組みをしていることが多いので、それに着目して発信するのも越境している校長の役割だと思っています。(週刊新陽もその一つ。)

校長になって9ヶ月。還元できていることがあるかと言うとまだまだですが、これからも一つ一つ積み重ねて、多様性を活かして協創するプラットフォームとしての学校を作っていきたいです。

高校生、そして中学生のみんなへ。

年末年始に色々な人と話をしたり、メッセージをやりとりしたり、本を読んだりしながら、あらためて学校について考えました。

行きついたのは、基本に立ち返ること、でした。

大事にしなくてはならないのは子どもの「教育を受ける権利」。子どもが学ぶために学校があるのです。

変化の激しい時代に、マルチステージ化する人生を送る私たちに必要なのは「自分らしく生きるために、自ら学ぶ力」であり、学校はそれを学べる場所だと思っています。新陽高校は、生徒たちが学ぶ環境を整えることに尽力します。

そしてそれは、生徒の「学ぶ意思」があってこそ成り立ちます。

私は、人は生まれながらに学ぶ意欲や成長する意欲を持っていて、すべての子どもは有能な学び手である、と信じています。

最後に、新陽の生徒たち、そして全国の高校生やこれから高校に進む中学生へのメッセージをもって、年頭の挨拶としたいと思います。

自分らしい学び方を探してください。あなたの得意な学び方、面白いと思う学びがきっとあります。
それを探すために自分を知ってください。自分を知るために、多様な人と出会ってください。
そして、いつでも自分の学ぶ力を信じてください。


【編集後記】
世阿弥の「初心忘るべからず」、実は、3つの文からなっていました。

是非の初心忘るべからず。
時々の初心忘るべからず。
老後の初心忘るべからず。


判断基準となる未熟な芸を忘れないこと、その年齢に相応しい芸もその段階では初心者であり未熟さがあるので一つ一つを忘れないこと、老年になって初めて行う芸もありいつまで経ってもこれでいいとか完成したということはないこと、を説いています。どの初心も忘れず芸の向上に励め、という教えなのだそうです。

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