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詩の勉強会 九月

昨日は詩の勉強会だった。
結局暑いままの九月であった。

今回の勉強会は
「書き足りない・説明がなさすぎる」ということと
「書きすぎる」ということを指摘される人が多かった。

突然話が変わるので、釈然としない感じにさせる作品
作者の意図を聞くとわかるが、そのようには表現されていない作品
感情をどのくらい出すか、という問題。

私は、noteに書いていた「花火」を推敲して出した。
私の作品は、書きすぎ、説明しすぎと言われた作品になった。


花火  
       
外に出て見回したこともあったが
見えたことはない
けれど
どこかで花火の音が聞こえる
 
特別窪地でもなく高台でもないが
十階建てくらいのビルに
遠く近く囲まれている地域に住んでいる
日当たりに問題はないが
花火は見えない
 
映像以外で花火を見なくなって何年になるだろう
最近ときどき花火を見たい
人ごみに入りたくはないが

 
子供のときは家族で寝転がって
真上に広がる花火を見たこともあった
ちょっと歩けば花火が見えた坂道も覚えている
近くの河原に出れば少し遠くに見えたこともあった
いろいろな場所に住んだのだった
我が子を連れての夏休みの旅行には
花火大会をする日の湖畔に泊ったこともあった
 
花火が幸せだった日々につながっていたのだとしても
そういう理由で見たいわけでもないだろうという気もする
そうではあるけれど
ただ
何か思い出すべきことがあるような気がしている

 
 
近くで花火を見た時の
終わった後の
少し焦げ臭い白い煙を覚えている
 
花火の 音だけが聞こえる


太字の部分はいらないという。
消してみると、確かにすっきりする。
「特別」という言葉は接頭語のように使ってしまうというか
本当に「特別」な時にだけ使うべき言葉として
簡単には使うな、という指摘だった。


削るとこうなる。

花火 


外に出て見回したこともあったが
見えたことはない
けれど
どこかで花火の音が聞こえる
 
窪地でもなく高台でもないが
十階建てくらいのビルに
遠く近く囲まれている地域に住んでいる
日当たりに問題はないが
花火は見えない
 
 
子供のときは家族で寝転がって
真上に広がる花火を見たこともあった
ちょっと歩けば花火が見えた坂道も覚えている
近くの河原に出れば少し遠くに見えたこともあった
いろいろな場所に住んだのだった
我が子を連れての夏休みの旅行には
花火大会をする日の湖畔に泊ったこともあった
 
花火が幸せだった日々につながっていたのだとしても
そういう理由で見たいわけでもないだろうという気もする

 
近くで花火を見た時の
終わった後の
少し焦げ臭い白い煙を覚えている

 
花火の 音だけが聞こえる


たしかにすっきりしている。
そして最後の太字の三行は
もうちょっと詩的なというかまともなというか
上手い表現を探しなさいと言われた。

参加者の皆さんは、とても上手な表現の人も多いけれど
それはそれで
まとめようとしなくて良い とか
もう少し感情的になっても良いなどと言われていた。

ちょっとプレバトを思い出して面白い。
「直しはいりません・すばらしい」と
手放しで言われる作品も、もちろんあるのである。

書き足りないも書きすぎも、
私のレベルではわからない。
指摘されて、見直しながら身に着けるしかあるまい。
学ぶことは面白い。
それなりに何かひとつゲットした気になるものである。



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