「人びとのなかの冷戦世界」の読書メモ

途中からメモとっとこ~という気分になったのでメモをしたものです。

p59 全能感を支えるために必要なもう1つの幻想、無能の他者というのはよくわかる。

p88「名付けるという行為は、本質的に政治性を伴うものだ。それは、その名を使う者がある一定の見方で物事を考えるように促す一方で、いったん名付けられたものの本質についてさらに考えたり議論したりすることを妨げる作用がある」

p141 毛沢東と並んで名前が挙がるのは朱徳。あと日蝕すらの話

p156「そもそも『安全保障』や『国防』という概念には、物理的、軍事的、または経済的な脅威を抑え込むというだけではなくて、より幅広い社会的側面―例えば社会の人びとがこれらの『脅威』に対して抱く印象―を管理するという意味までもが含まれるということだ」

P176「なぜならば国全体がそれを欲していたからだ」

P177 異常者は行政に相手をしてもらえないのは50年代でも変わらない。

P182 捏造版の翻訳というのは当時もあった。今も絶対あると思う。

P188「あらゆる現実はある意味、想像された現実であり、(…)それらは人間の意識の産物に過ぎない」

P199 マッカーサーの統制の下、岡村寧次が河北に進行という展開。想像力すごい。

P212「多くの人々が突然率先して納税義務を果たすようになったからだ」

P215「その殺害者が白米1トンを受け取ったという話は残っていない」

P220「普通の人々による国内的鎮圧と社会的懲罰の嵐」

P229「ダブル・ビクトリー」とは外敵のみならず国内の差別への勝利のこと。

P235 オバマの皆保険に対する「共産主義的」という批判、今も生きているので「それほどの威力を持つことはなかったが」ということはないのかな、と思う。

P243 共産主義者の定義

P257「ストライキという手法自体が最大の非難の的だった。なんといっても、それは『普通』の秩序と生活を妨げるものだったから」

P271「理由は何であれ、学生たちは公の秩序や治安を乱したのだから」今でも言いそう、というか今の方が言いそう。

P284「つまり『鎮圧反革命運動』の開始移行、同地区の雰囲気が明らかに向上したという」

P287「処刑された人びとの多くは、『反革命分子』などではなく『単なる普通の犯罪者ぐらい』に過ぎないのではないか、とのことだった。

P290「しかし2010年代に入り公開資料の制限が一気に強まり、本書で使用した資料の多くが今では閲覧できなくなってしまった」似たような話をロシアのでも聞いた気がする。「レニングラード封鎖」のあとがきだった気が…

P312「しかし、そうした異議申し立ては土着なものに対する愛着心を超えるものではなかった」最低な生活であっても、それが土着なものである限りは愛着心が湧く、ということ?

P314「人びとの思考は徐々に標準化されつつあり、穏やかに議論することができる話題の幅も狭められてきている」

P322「しかし、この類いの問いにはそもそも落とし穴がある。それは、すべての出来事は誰かの意図から始まっているに違いない、との前提だ」

P327「私たち自身もこの現代という坩堝のなかで現実の在り方を日々選択し、時には修正し、或いは承認することでその継続を支えている日常レベルにおける、いわば権力者なのだから」

P334「そうした心情的な反発は、気にしても仕方がないので、気にしないようにしているが、」なるほど。

P338「この種の横断型研究の作品では、議論の方向性は、既存分野から自動的に提供されるものではなく、その本自体によって―特に章立ての順序やセクションの配置具合によって―提示されてゆくものだからだ」

P339「私たちがいまだによく理解していないこと―そして本書が強調していること―は、普通の人びとがどれほど強大な影響力を発揮して国内社会の異論を封じ込めたり、しばしば暴力的で残酷な手段で国内秩序と社会の安定を生み出そうとしていたりしたか、ということだ」

P340「本書は、国家とプロパガンダの役割を軽視しすぎではないのか」この指摘はあるだろうなと思った。

P344「本書の研究で明らかになったのは、無数の人びとが『客観的』だと信じていた『現実』や『歴史』は、実は、社会的に、歴史的に、そしてローカルな願望に基づいて構築されたものだった、ということだったのだから」

ざっと気になったところをメモしたものです。面白い本でした。






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