「大衆化した人間は、自分の宿命である不動の堅固な大地の上に足場を固めることをしない。むしろ、空中に宙吊りの虚構の生を営む。いまだかつてなかったように重量も根も持たぬこれらの生が、おのが運命から根こぎにされて最も軽薄な風潮の中を流されるままになっている。」 オルテガ・イ・ガセット『大衆の反逆』より

大衆は足場を固めることをしないと、オルテガは指摘しています。ただ、大衆は望んで足場を固めることをしないのだろうか、と疑問がわきます。実は、固めるべき足場を探してさまよっているのではないでしょうか。
高度経済成長を支えた大衆の「足場」として大いに機能した組織は、宗教(主に創価学会)、政治(共産党)、労組の三つでした。農村の村社会という足場に代えて、都市に集中する大衆の足場として、三つの組織が機能し、昭和の大衆社会を構成しました。

今、この三つの組織は、昭和世代の足場としては、なんとか機能しているものの、若い世代の足場とはなっていないように思えます。創価学会は、かつて天理教が辿ったように信者の高齢化に直面しているようです。先月行われた練馬区議会議員選挙の結果(公明党候補が四人も落選)をみても、かつての勢いが失われているようです。共産党の党勢、連合の結束力、いずれも昔日の面影は残っていません。

「(飢えて)パンを求めて、パン屋を破壊する大衆」と表現されるように、社会の大衆化は暴力を誘起します。大衆ではなく、賢明な庶民であるために、私たちの足場となるものはないのでしょうか。

宗教、政治、労組に代わる組織体を足場として探すことは時代錯誤でしょう。むしろ、一人ひとりが持つ感性を磨き、その感性に従うことではないでしょうか。満員電車に毎日揺られることが辛いと思うなら、その感覚に素直に従う。会社が出社を呼びかけても、リモートワークを貫く。賢い庶民であるために。
J・クリシュナムルティの言葉を引けば「非蓄積的知覚」(なんの偏見も持たずに知覚し、行動する)を磨き、それに拘ることこそが、賢い庶民であり続ける方策のはずです。





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