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短編 夏の匂いがした。

夏の匂いがした。

もっとも、それは干上がったアスファルトと人々の汗とが混ざり合う所謂夏を感じさせる匂いではなく、冷房の効いた部屋に漂う夏を感じさせる匂いだ。
秋口に8月の名残からつけたままにする冷房の匂いとは違う、初夏の季節にしか感じられないあの、泣きたくなるほど懐かしい夏の香り。
そんな香りを嗅いで、夏の暑さや、滑り台を滑る時の服の汚れをたいして感じることなく友達と夢中で遊んでいた頃のことを思い出した。

昔の僕は夏が好きだった。扇風機を回しながら濡れ縁に座り込み、アイスを食べて日差しを浴びる。
そんな毎日が僕は本当に大好きだったんだ。
けれど、いつしか僕は夏を嫌いになっていってしまった。強い日差しによる日焼け、通学路を歩くときにベタつく汗、気づかないうちに鬱陶しく感じるようになった蝉の声。
嫌なところにばかり目がいって、画用紙に雄大な青空と入道雲を書いて、その下にどこかで見たような片田舎の木製の家屋と、いくつかに切り分けられたスイカと、今にもチリンとなり出しそうな風鈴を描いて、将来はこんな家に住みたいとひそかに思いを寄せていた頃の僕を忘れてしまっていた。

現代は忙しい。朝、目が覚めたらすぐに顔を洗って身支度を済ませて、急ぎ早に朝食を済ませて、バタバタと音を立てて家を出なければならない。
学校へ着くと受けたくもない授業を受けて、友達と喋って、寝て。たまにふと我に帰って、こんな時間の過ごし方をする自分のことが少し嫌になって。
学校から帰ってくるとドッと溜まっていた疲れが押し寄せてきて、寝ぼけ眼になりながら、ご飯やお風呂を済ませて、受験生であるという焦燥感に駆られながら勉強をする。
そうして泥のように眠りにつき、1日が終わる。

毎日が忙しくて、いつしか本が好きだったこととか、写真や、街並みを見ることが好きだったことや、見たこともないけれど何故か頭の中に浮かんでくる、少し錆びれているけど暖かい商店街や、レトロなウルトラマンの人形が置いてあるような老舗の玩具屋さんの前ではしゃぐ子供。そんな風景を書くことが大好きだったこと。
本当に大事なことだったのに、日々の忙しさにいつしか埋もれてしまっていた。

受験生の、このなんでもない六月の昼下がりにこのことを思い出せたのは運命に似たようなものがあるのだと思った。
訳もなく足を運んで、どこへ行くともわからずにただ早く、もっと早くと心の中で叫ぶ僕の体にストンと落ちてきた天啓の様なものだとも思った。

夏が好きだ。

今なら胸を張って言える。

夏を感じたくて、ふと部屋の窓を開けた。
風がぬるい。1年前の僕ならきっと嫌な顔しただろう。
これから来る暑さと、汗でベタついた髪と服だけを想像しただろう。
今の僕だってそういう煩わしさを考えない訳じゃない。だけど、もうそれだけじゃない。
好きなこと、沢山あったんだ。やりたいこと本当はあったんだよ。やりたいことって聞かれて上手く答えられない自分が嫌だったけど、本当は、そんなこと忘れるぐらい、僕が遠ざかっていってしまっただけだったんだ。

アニメを作ろうと思った。僕はアニメが好きだから。
僕がいっぱい好きなものを詰め込もう。どうしようもなく懐かしくて、大切な、一夏の思い出。小学生の夏休みの頃に聞いた、いつもなら聞かないはずのゴミ収集車の音がちょっと好きだったこと。ぽきっとおって食べるアイスを友達と食べたこと。他の季節とは比べ物にならないくらい深く青い草に目を引かれたこと。僕の描く夏を形にしたいと思った。


だけど、今はやっぱり走らなくちゃ。
アニメをやりたいけど、今はやっぱり勉強だ。
大学に行きたいなんて、今までは思ってなくて、なんとなく大人が言うからとか、みんなが行くからとか、そんな漠然とした理由で大学に行くつもりだった。

でも、今、大学で過ごす夏はどんな夏だろう。と考えてしまった。きっと楽しいだろうな。今までで1番自由な夏になるんじゃないだろうか。
伊豆へ避暑に行くもよし、海へ行って思い切り焦がされるもよし。なんなら、どっちもやったっていいんだ。自分の中に、少しだけ芯みたいなものができた気がした。嫌なことがあったら、逃げるし、辛いことなんかまっぴらだけど、それでも、この夏に対する僕の思いはきっと本物なんだと思った。

初夏の、ガンガンに冷房の効いた部屋で夏についてこんなに語る自分がなんだか少し可笑しい。
でも、本当のことだから。クーラーの中で感じる夏があったっていいじゃないか。
自分のこと、好きになんてなれないと思ってたけど、いまはちょっとやるじゃんって感じだ。

夏の匂いがした。この匂いを感じることができるのなら、僕は何度だって僕になりたいと思った。


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