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5月3日の僕。

冬枯れた木々が少しみないうちに梢に緑の葉をつけ、その葉が花へ変わるのに気づかないままいつしか雨が降り始め、やがて惜しむ間もなく花を散らす。

その一連の行為が、春を終わりに向かわせるのを感じる。
そんな季節の移り変わりがあるからか、もう何度見たかわからない、見慣れたはずの車窓からの景色も飽きることがない。
建物自体に変わりはないのに側に生える木々や差し込む陽射しの心地が変わるだけで、こんなにも心が揺れ動いで、何よりも大切な瞬間になる。

心って不思議だ。自分の感情なのに酷く他人行儀なものに思えることもあれば、自分の感じる辛さや悲しみがまるで世界の全てに思えるほど重くのしかかったり、果ては、自分のいままでの全てを肯定したくなるほどのどうしようもない喜びや幸せや愛おしさが押し寄せてくることもある。
こんなことで喜べる人間が僕はたまらなく好きだ。
贅沢はたまにでいい。家族や友達と何気ない会話をして、毎日の天気に一喜一憂して、そうしてふと立ち止まって仕合せを感じることに何よりの喜びを感じる。

でも、それと同時に自分の生活の生ぬるさに嫌気がさすことがある。
僕たちが何気なく利用している道路や建物、教育、電子機器に、掃いて捨てるほど生産される食べ物。
僕らのあたりまえを手にするためにどれだけの血が流れたのだろう。
僕らはその血に報いることができているのだろうか。僕らだけの生活のために未来にさまざまな問題を残すのは僕らの先祖への冒涜ではないのか。

そして、いま、僕らの先祖が人間としての尊厳、文化を守るために流した血の結晶を僕らは僕ら自身の手で手放そうしている。自由を捨て、推しという偶像に縋り、奴隷に回帰しようしとしている。

きっと僕ら人類は生ぬるくて反吐が出るほどの理想郷に毒されてしまった。僕らの生活にこびりつく血が見えなくなるほどに。
人類は知恵の実をすて、エデンの園に帰ろうとしているのか。無垢な人類に戻ろうとしているのか。
でも決してその願いは叶わないだろう。
自由を捨てても、ただ白痴になるだけだ。

物を知らず、思考を放棄し、故に物事を判断できない。それは無垢なのではない。ただ、人間以下の畜生に成り下がるだけなのだ。

自由の奴隷となり、残酷な世界の中で、愚かにもがき苦しむ僕の大好きな人間はいなくなってしまうのだろうか。
ただただ、悲しいばかりだ。


なんだか少し啓蒙的になってしまった。
いつもの叙情的な散文が好きな人にはお気に召さない内容かもしれない。
それでも、備忘録というこの一連の文章の本懐からややずれてしまったこの文章も愛してくれるととても嬉しい。

5月某所、まだ少し肌寒い夜風に吹かれながら。






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