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常滑 角掛政志さんを訪ねて

 こんにちは、のぶちかです。

 さて今回のnoteは、常滑の角掛政志さんの工房へ初訪問した際のインタビュー記事となります。

 オファーのきっかけは、5月に開催されていた倉敷のイベントに赴いた際、初めて現物を拝見した事でした。
 
 実用に向く釉質や器形状、落ち着きのある色調、更には高いクオリティかつ手頃な価格帯という嬉しいギャップに強く惹かれ、お会いして2週間で工房訪問に至りました。

 また、2025年にはJIBITA初個展もお願いしてきましたので、どうぞお楽しみに。

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角掛政志さん インタビュー

のぶちか
 いつ頃から陶芸を始められたんですか?

角掛さん
 僕、常滑の研究所に来たんですけど、当時は定員割れでしたね。バブルがはじけてもう陶芸をやる人がそんなにいなくて。

のぶちか
 92年あたりですか?

角掛さん
 えぇ、その時に始めたんで。まあ、その景気の良かった頃の話をまだ常滑来たばかりの時は聞いてたんですけど、

「窯出ししたらすぐ売れてった」

 みたいな。
 でも始めた時がそんな時代だったんで良い思いも何もないんですけど、その頃やっぱり焼き物やる人も全然居なくて。

のぶちか
 えっ!?この産地でですか?

角掛さん
 この産地で。急須屋なんかバタバタ潰れちゃったりして。

のぶちか
 ええっ!?

角掛さん
 で、みんなその頃は安い型物の量産品を作っている所が稼業をやめていって、手作りでやってる人たちが辛うじて細々やってたんですよ。
 そしたら今、中国の方でそれが売れ出して。だから今、すごい逆転現象が起きてるんですよ。
 でも、研究所に入った当時はそんな時代だったんで、地元で陶芸を志す人は殆どいない笑。やらない。だから…、なんていうのか

「継がせない」

 っていうか笑。

「もうこんな斜陽産業だからやめた方がいいんじゃないか?」

 っていうような雰囲気でしたけどね、常滑は。
 だから今、常滑で若い子で焼き物やってるのって、かろうじて地元の方もいますですけど、ほぼ他所からの方ですよ。

大正時代の建物を御自身で改装された工房

のぶちか
 そうなんですね!

角掛さん
 熊本とか九州とか関東とか。僕も岩手ですし。だからほとんど継ぐ人がいなかった時代ですよね。継ぐのをやめた人達が多くて、他所から来た人が焼き物をやりだして、あと工場とか潰れてたんで空き工場とかいっぱいあったんですよね。
 だから割りと若い子でも借りやすくて。

のぶちか
 では岩手から焼き物をやろう、っていうそのきっかけというか、一番根本のところを教えて頂けますか?

角掛さん
 僕はもうただただ家が出たかったから。
 だから18歳で東京に就職したんですね。そこで3年ぐらい働いて、その頃は景気がバブルだったんで仕事もちゃんと正社員だったんですけど、1年で辞めてバイトでも稼いで。

「あー、なんか何か物を作る仕事をしたいな」

 と思ってたんで、

 「もう焼き物やろう!」

 と思って常滑に来たんです笑。
 それと同時にバブルがはじけたん感じです。

のぶちか
 ものを作りたいなって何かきっかけとかってあったんですか?

角掛さん
 ものは作ってましたね、何か。

のぶちか
幼少期からみたいな?

角掛さん
 えぇ。別に焼き物に限らず木削ったりとか、そんな事やって遊んでたんですけど。
 高校の頃かな?社会科見学みたいな…、小久慈焼っていう民藝品を作ってる工房があって、そこに見学行った時に

「なんか面白そうだなぁ」

 ってロクロをずっと眺めてたんですよ。
 そのイメージがあって、ある日突然、

「東京には居たくないなぁ」

 と思って、

「物を作る仕事をやろう」

 と思って色々と回りましたね、瀬戸とか京都とか丹波とか信楽とか。

 でも京都とか信楽とかは余所者は受け入れない感じで。瀬戸は訓練校で作業着せられて朝からラジオ体操とかやってるんですよ笑。
 僕、工業高校だったんですけど

「うわ、高校時代と同じだなぁ」

 と思って笑。

 でも

「常滑来たら受かるよ。」

 って言われて笑。入る人もそんなにいないし、定員4人ぐらいなんですけど、それでも人は入らない笑。余所者も受け入れてくれるし、そんな感じだったらいいかな、と思って常滑に来た感じですね。もうそれからずっと常滑なんですけどね。

陶芸人生のスタート

のぶちか
 では22歳ぐらいから研究所に入所されて、どんな事を学ばれたましたか?

角掛さん
 基本的にはロクロですね。小物の先生と大物を作る先生と、あと手びねりの先生と。そこで1年勉強しました。
 その後は陶芸教室で働きながら、夜は自分で借りていた仕事場で仕事してました。廃土管工場みたいなところを借りて。

のぶちか
 ちなみに1年でも急須作れるぐらいまで…。

角掛さん
 いえいえ、なれないですなれないです!
 基本的に午前中だけ講師が来て教えてくれて、午後からは自由にしていいよ、っていうので、もうやらないですよね。
 午前中教えてもらって、午後からもうアパート帰って洗濯したりバイトしながらやってたんで。
 研究所が終わってから夜に製陶所にバイト行って…、あの賃挽き(作った生地の数だけお金がもらえる仕事)を。

のぶちか
 ではそこで圧倒的に数を挽かされて(ロクロが上手くなったんですね)?

角掛さん
 そうですね。

のぶちか
 では急須、ポット類は全部独学ですか?

角掛さん
 独学ですね。
(作り方を)見せてもらった事もありますけど、本職の人の。でもたぶん朱泥の急須あるじゃないですか。あれはもう特別ですよね。もう僕らみたいな人は扱えないっていうか。
 だから朱泥の急須を作る人は朱泥の急須以外作らないです。全然土の質が違うっていうか。

のぶちか
 やっぱり常滑だと朱泥の急須を挽けるという事は、この産地の中では非常に権威的というか、偉い人というか、そういう様な見られ方ってあるんですか?

角掛さん
 たぶん急須屋さんの中にはそういう世界観があって、その中ではそういうピラミッド的な考え方はあるかもしれないですけど。
 まあ、でも僕らは全然よそ目で見て、「(朱泥急須の)技術がすごいなぁと思うけど、別にそこをやろうと思わないです。

のぶちか
 すいません、横道に逸れました。自分の産地(萩焼)以外の事ってほぼ分からないので、各産地ごとの特色があれば知りたいなと思ってお聞きしました。それでは研究所を出られた後は?

角掛さん
 陶芸教室で働いてました。土建屋さんの社長が趣味でやってる陶芸強室で、土建業の給料で雇ってくれたんですよ。
 すごい恵まれた環境で、なんかボーナスが肉と軍手なんですよ笑。

のぶちか
現物支給笑!

角掛さん
 昔の土建屋の人だったから。亡くなっちゃいましたけど良い人でした。
 その人も趣味で焼き物をやってて、作った壺を日本海側のどこかの市役所に買ってもらったとかで、社長と2人でその壺を納品しに行って笑。で、帰りは社長は芸者呼んでなんかどんちゃん騒ぎしたらしく、僕はひとりで社長の車で帰って来たんですけど笑。
 なんか変わった人でしたねぇ…、面白かった笑。

のぶちか
 なんか最近少なくなった昭和な感じな方ですね笑。

のぶちか
 ちなみにお肉は笑?

角掛さん
 食べた事ない高級な肉でしたよ笑。

のぶちか
 良かったぁ笑。そうであって欲しいなぁと思って、せめて現物支給なら笑。

角掛さん
 えぇ、恵まれましたねぇ。陶芸教室はやっぱり居心地が良かったんで、5年か6年ぐらい働きながらずっと夜は自分の仕事をするって感じでした。

独立

のぶちか
 陶芸教室を5年されて独立になるんですか?

角掛さん
 そうですね、独立しました。

のぶちか
 20代で独立ですね。

角掛さん
 そうですね、20代後半からですね。

のぶちか
 割りと順風満帆でしたか?

角掛さん
 いや、そんな事ないですよ笑!やっぱり1~2年で食べれなくなって。
 僕、東京いた時、内装屋でクロス貼ったり床貼ったりする仕事だったんですけど、またバイトでそういう事をしながらまた焼き物を始めて…。もうなんかそっちのバイトの方がまた忙しくなってきて。
 でもある時、やっぱりどこかでバイトをやめないと陶芸で食べていけないなと思って…。
 そこで3年バイトして、もうバイトはしないと思ってやめて…。
 それから急須とかも作る様になったのかなぁ。

のぶちか
 そこから練習を始めてみたって事ですか?

角掛さん
 そうです、独学で。
 でももうひどいもんですよ。(当時のは)急須って言っても急須って呼べるのか分からない感じだったかも…。
 いやでもバイト辞めて良かったなと思います。あのままズルズルやってたら独立なんかできなかったんだろうなぁって…。

のぶちか
 当時はSNSが無いじゃないですか。
 そういう中で陶芸家としてちょっとずつオファーが来たりだとか、注文がたくさん来る様になったタイミングはいつ頃でしたか?

角掛さん
 やっぱり松本クラフトフェアとかあぁいうイベントに出て行って、お店との繋がりができた事が一番じゃないですかねぇ。

のぶちか
 今あるラインナップは基本的に常滑の土をベースに作られているんですね?

角掛さん
 せっかく常滑にいるので常滑の土を使った方が良いかなっていうのはありますね。

のぶちか
 角掛さんは常滑の土を使いつつも表現は常滑焼のイメージから離れたところにある様に感じているのですが、その表現の源泉はどこから来ているのですか?

角掛さん
 僕、釉薬のテストピースを作るの好きなんですよ。(釉薬を)調合して、「あ、いい色だな。綺麗な色だな。」と思って、そこから入って行く事が多いですね。
 それを何か、例えば急須を作る為に釉薬の試験をしてるんじゃなくて、ただ単に「綺麗な釉薬だな」と思ったら、「これをじゃあ食器にしてみようか」っていう感じで。
 釉薬も好きだし、そういう動物みたいなのを作ってみたいと思いながら、同時に色んな事をやってて。
 まあ全部中途半端になってるのかもしれないですけど笑。
 別に食器を作るのも嫌いじゃないし。
 これっていう感じではないんですけど、これだけがやりたいとかっていうのは無くて。

のぶちか
 普段、制作で心がけてらっしゃる事とかありますか?

角掛さん
 本当に特にないんですよね。やりたい様にやる…。
 でも注文入ってたら注文品をやる訳だから、やりたい様にだけもできないんですけど笑。注文をこなしながら何か新しい自分の作りたいものを作りたいなぁと思いながら…、無いかなぁと思いながらやってますけどねぇ。
 毎回毎回やりたい事も変わってきちゃうんで。
 それとちょっと今、薪窯を作っていてほぼ完成したんですけど、狛犬とか作ってみたいなってずっと思っていて笑。
 だからまた全然これまでとは違う事をやり出すかもしれないですけど笑。

のぶちか
 狛犬!いいですね~!他にはどんな事に挑戦されたいと考えてらっしゃいますか?

角掛さん
 なんかゆるい感じの狛犬をいいなぁと…。
 あとは…、でも動物はちょっと興味ありますね。あの…お稲荷さんとか…、

のぶちか
 おぉ…。

角掛さん
 別にそういう宗教的な意味合いは無いんですけど笑。

のぶちか
 では立体に興味があるんですか?動物ですか?

角掛さん
 あと…、祠に入っている状態の動物とかもいいなぁって思ったりして。(中略)でも本当、何が売れるかなんて分からないですよね。作りたいものを作るのが1番いい様な気がしますけどねぇ。

⇧角掛さん最新の釉薬「黒マンガン」
のぶちかが初見でかなり惹かれた釉薬。

のぶちか
 僕もそう思います。
 楽しんで作られたものにはその気持ちが乗り移っているというか、作品が光るというか。
 なのでJIBITAで個展(2025年)をして下さる時には、今とは全然変わった新しいものがあっていいので、ぜひ楽しんで臨んで頂ければ嬉しいです。


―終―

角掛政志 
~略歴~

1970年岩手県生まれ
1992年常滑陶芸研究所入所
1997年常滑にて独立
現在、同地にて制作の傍ら薪窯を築窯中


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