あなたは本当に人を”許し”たことがありますか?
「あなたは本当に人を”愛した”ことがありますか?」と改めて問われると、自信がなくなる、って感覚ありますよね。「私がしていたのは真の愛ではなかったかも知れない」と。
それと同様に、「あなたは本当に人を”許し”たことがありますか?」と問われたできごとの話です。私がやってきたのは本当の許しではなかったのかもしれないと、正面から突きつけられました。
この1ヶ月の間に、不思議なことがありました。偶然、辺鄙なところで昔色々あった友人に偶然あったり、250万円くらい貸して1円も返さない友人と連絡が取れたり、3年ぶりに電話をしてきた旧友がいたり。。。
その電話の旧友とは別にわだかまりがなかったのですが、久しぶりに逢おうとなったんですが、絶妙に遅いタイミング(目的地に着く直前)にキャンセルラインが来て、「なんでやねん」ってなりました。もう今世では逢わないかもしれないとも思いました。
そんなもやもやを抱えたその日の午後、一つのことを思い出しました。実はその直前に、オリジナルの「高橋家家訓」というのを十か条で作ったのです。子供向けというのがメインですが、それをトイレに貼りだしています。
それが頭によぎったのです。その第八条が、「自分もたくさん許されて生きています。だから人の失敗も許してあげましょう」となっています。というか、自分で書いたんですが、、、
それを思い出したとき、ぶわ~っと色々な思考が押し寄せて来ました。もちろん自分が出来ている背中を見せないと、子供の手本にはならないとも思いました。そして、「不完全で未熟な自分は、一体、いままでの行いで、どれだけ人に迷惑を掛けて来て、どれだけ許されて来たんだろう」と考えてしまいました。
大人になると、「許せずに人知れず離れる人」、「気にしてないふりをして許してくれている人」色々な人がいると思いますが、面と向かって、「許す」って言われるようなことはほとんどありません。だからこそ、色々な人が、いろいろなことを許してくれてたんじゃないかって涙が出そうになりました。
「ごめんなさい」「ありがとう」この二つの言葉にすべてが集約されました。自分がされてきたことは、世間にお返ししなければいけない。そう思いいたりました。私が許せないと思っている当人にだって、許してもらっていたことがあるのではないかと思いました。
私は、「許せない」という感情を持ったまま、「許す」ことにしました。許すっていうと上から目線な感じもしますが、決してそういう訳ではありません。なかったことにする感じです。本人が悪い訳ではなく、みんな未熟なだけだったと理解する感覚です。人は誰もが失敗するんです。だから全ての人を、全ての行為を許しました。
すると、どうでしょう。心が少し軽くなった気がしました。日々思い出す訳ではないですが、許していない人、許していない行為は、ずっと腹の底に溜まって、腐り続けていたのだと思います。それは許しが入って、水に流されるまで、ずっとそこで腐り続けるのです。
許せないということは、自分の感情や体にとってもすごいマイナスです。許しとは、自分のためにすることだと気づきました。そこから派生して、私は同じような理屈で、自分にも許していないことがあるのではないかと思いました。それもこの際、一切合切、全部許すことにしました。
「出来ていると思った瞬間が退化の始まり」みたいな言葉がありますが、本当にこの通りで、私はいつも、性懲りもなく同じ罠にはまっている気がします。私は自分が「許し」というものを出来ていると思っていました。だからこそ、「許し」というテーマにしっかりと正面から向き合ったことはありませんでした。
しかし、私がしてきた許しは本当の許しではなかったんだと思います。今までしていたのは、なんとなく時間の経過と共に、感情も、その出来事もなし崩し的に薄れていって、許すという行為ではなく、忘れるに近い行為。
本当の許しとは、「許せない」という感情を抱えたまま、能動的に「でも許す」という腹にぐっとくる決断をすることなのじゃないかと思いました。子供を見ていると、何かあったとしても、こじらせて許さないとかにならずに、すぐに一緒に遊び出します。子供の方が何枚も上手(うわて)ですね!
2021年の年末に、また一つありがたいことに成長できた気がします。私に気付かせるための役割を担ってくれた、配役の方々、神々に感謝です。いつも読んでくれている方々も本当にありがとうございます☆
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