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『ゴジラ対ヘドラ』 (71年) シリーズ史上最もリアルを感じさせる怪獣映画の名作 【昭和のゴジラ】

新型コロナ肺炎の巣篭もり生活をする中、米クライテリオン・コレクション昭和ゴジラ映画を楽しもうと思っている。
このコレクションにはレストアされた昭和時代のゴジラ全作品が入っておりブックレットも大判で見ていて楽しい。その中でぼくが最初に選んだのが『ゴジラ対ヘドラ』(71年)だ。

マニアから、なんでそれやねん!? とツッコミが入るだろうが、いやいやぼくが子供の頃観て一番面白いと思ったのがこれだったのである。

現在では、やれカルトだとかアバンギャルドだとか評価の高い『ゴジラ対ヘドラ』だが、当時小学校高学年のぼくには、ただただ面白かったと大人になっても記憶に残っていた。公開から約50年を経て自分がなぜこの映画をそんなに面白いと思ったのか?を考察してみる。

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1971年の冬休み、ぼくは友達と一緒に地元の小さな映画館にいた。東宝チャンピオンまつりの『ゴジラ対ヘドラ』を観るためだ。
東京や大阪ではその年の夏休み(1971年7月24日)公開だったが、ぼくが住む田舎の映画館には遅れてやってくる。それは地方では当時当たり前のことだった。
いつもゴジラ公開時には、少年キングなどで宣伝記事が掲載され、ぼくらはいつ見れるかわからないゴジラをいつも心待ちにしていたものだ。
この映画公開時には別冊少年チャンピオンの付録でコミック化された『ゴジラ対ヘドラ』があり、ぼくは既に何度も何度も何度も読んでいたので完全にネタバレ状態での鑑賞だった(もちろんゴジラが飛ぶことも知ってた!笑)。

それでもめちゃ面白かったのは、このゴジラが新作だったのもあるが、ゴジラが初めて「リアル」に感じられたのが大きいと思う。そのことを伝えるためには、当時の時代背景の説明が必要だろう。

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1971年とはどんな時代だったのか?

ツィギーの来日から日本でもミニスカートやサイケなファッションが流行(←まさに映画『オースティン・パワーズ』の世界だ)。
その年の日本レコード大賞は尾崎紀世彦の「また逢う日まで」新人賞は小柳ルミ子(←今サッカー評論家・笑)。米グラミー賞はサイモン&ガーファンクルの「明日に架ける橋」新人賞はカーペンターズだった。

ぼくが当時夢中になっていた漫画は、少年サンデーの「天才バカボン」少年ジャンプの「ど根性ガエル」「トイレット博士」や「ハレンチ学園」。TVでは「8時だヨ!全員集合」「ゲバゲバ90分」「コント55号の裏番組をぶっとばせ」(←コメディばっかりやな・苦笑)や、ドラマ化された「ハレンチ学園」、大人が見てる「プレイガール」「11PM」を盗み見てうれしくなっていた(笑)映画では『小さな恋のメロディ』が公開されローティーンに大流行していた。

アメリカではベトナム戦争が泥沼化し反戦運動が高まり、日本でも70年安保が終わり過激派は内ゲバを繰り返していた。
前年の70年に大阪万博が終わり、高度経済成長も陰りを見せ始めていた。
ネット世代の人に想像してもらうには『クレヨンしんちゃん 嵐を呼ぶモーレツ!オトナ帝国の逆襲』でノスタルジーにひたるあの時代といえばわかってもらえるかもしれない。

猛烈な経済発展と引き換えに日本人が手にいれたもの。それは「公害」だった。

公害は社会問題となり、小学生のぼくでも十分そのことはわかっていた。1967年公害対策法基本法成立。1971年7月環境庁のちの環境省)が発足したばかり。新聞やTVでも、水俣病、イタイイタイ病、四日市ぜんそく、大気汚染、光化学スモッグ注意報、田子の浦港ヘドロ公害問題等が連日報道されていた。

映画冒頭での工場の排煙による空気汚染や、海に浮かぶ大量のヘドロやゴミは見慣れた風景だったのだ。
サイケな007風タイトルバックにのって軽快に歌われる♩水銀 コバルト カドミウム 鉛 硫酸 オキシダン シアン マンガン マナジウム クロム カリウム ストロンチウム(←「かえせ!太陽を」歌:麻里圭子 作詞は監督の坂野義光)も今聴くとけったいな歌やな、と笑ってしまうが、当時は違和感なかったなぁ。

映画の舞台は駿河湾。これも田子の浦港ヘドロ報道でよく見ていた場所だ。寅さん映画の夢のシーンや『ガメラ』の原住民役の吉田義夫扮する漁師が海洋生物学者・矢野(山内明)のところへオタマジャクシのような生物が見つかったと訪ねてくる。TVには怪獣によるタンカー衝突事故が映る。矢野は調査のため海へ潜るが怪獣に襲われ重症を負う。海岸にいた小2の息子・研(川瀬裕之)も怪獣に遭遇し、ヘドラと名付ける。

ヘドラは街へあらわれ、工場の排煙を吸い、空を飛び回る。校庭で体操していた生徒はバタバタと倒れ(←これも光化学スモッグで実際にあった)、成長したヘドラは硫酸ミストを降り注ぐ。浴びた人間は最後は骨だけになってしまう。

劇中、ところどころでアニメによって説明が入る。これがまた教育映画のそれで今見ると笑ってしまうが、「アンチヘドラ酸素マスク発売中」とか内容はリアルである。

ゴーゴー喫茶で踊るミキ(麻里圭子)を下から見上げる学生運動家・行男(柴本俊夫←柴俊夫の旧芸名)。ミキの股間に貝ガラが描いてありなんともエロチック!踊ってる若者たちが全員「魚人間」になっちまうというシュールさ!これぞ坂野(ばんの)演出だ!(笑)

我らがゴジラも今回は苦戦する。殴っても殴ってもヘドロなので、「ぬかに釘」状態。光線で左目もつぶされ、右腕も白骨化するが、それでも目ん玉を引き抜いて焼いたあと、また逃げるヘドラを尻尾をもって空を飛んで追いかける

戦いに勝ったあとも、自衛隊と矢野たち〈人間〉を恐ろしい形相で睨みつけるゴジラ。ラストで、もう一匹ヘドラがいた... という恐ろしい終わり方。

それまでぼくたちが楽しんできたゴジラ映画は、無人島が舞台だったり、SFだったりと現実離れした娯楽怪獣映画だった。だがこの『ゴジラ対ヘドラ』は、今そこにある危機を見せてくれたのだ。そのリアルな恐さが小学生の心にも響いたのだ。公害・自然破壊はいけないという明確なメッセージを具象化してくれた。だからぼくはこの映画が超絶面白いと思ったのだろう。
こういうリアルなゴジラは、その後東宝では作られず、また元の児童向け娯楽怪獣映画に戻ってしまう。リアルな恐さ(東日本大震災の原発事故)を見せてくれたのはギャレス・エドワーズ版『GODZILLA/ゴジラ』まで待たなくてはならなかった(←この作品のエグゼクティブ・プロデューサーが「ヘドラ」の坂野監督だったというのも歴史の必然かも)。

ネットでこの映画の資料にあたると、製作費が足りなくて悲惨だった云々の話が出てくる。そらそーだわ。当時映画は世界的に斜陽産業になっており、日本でも観客数がピークの1958年の11.3億人から1970年代初めには2億人を切る。約1/6に減少したのだ。
黒澤明でさえ東宝で映画が撮れず独立系で『どですかでん』を作り、日活映画はロマンポルノに路線を変更したのだから。
そんな中、この『ゴジラ対ヘドラ』は(色んな意味で)よく頑張ったと思う。ゴジラの産みの親である田中友幸プロデューサーに「ゴジラを飛ばした」ことで、飛ばされた干された坂野義光監督のこれはデビュー作品であり唯一無二の名作とぼくは思っている。

てなことで。

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