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遅かったお弁当
「癌だね。」
エコーの画像を見ながら先生が言う。
えっ?
「先生、もっと詳しく調べないとわからないんじゃ…。」
ほんの少しため息をついて先生が言う。
「これを見て癌だとわからなかったら医者じゃないよ。」
それくらい大きくなっていた。
私の胸にあった石のような塊は直径4cm近くになっていた。
主人に電話する。
「ごめん…。癌やった。」
「え?…嘘やろ?」
声を聞いたら涙が溢れた。
「本当…。ごめんなさい。」
5ヶ月前に再婚したばかり。
主人に申し訳ないと思った。
息子たちは?
私がいなくなったら、自閉症の息子たちはどうなるのか。
障害があるなりにも自立できるところまで、まだいっていない。
怖いとは思わなかった。
自分がいなくなるかもしれない。
そう思うと、主人と息子たちに、ただただ申し訳ない気持ちしかなかった。
リンパに転移していることもわかった。
「リンパに転移してるから、もう癌の芽は全身にいってるよ。乳癌だけど、こういうのは全身癌っていうんや。」
全身癌。
そう言えば、樹木希林さんが乳癌を公表した時も『全身癌』って言ってたな…
こういうことを言うのか。
ハッキリとものを言う先生は、合わない人はとことん合わない。
病院の評判は2つに分かれていた。
曖昧に言われるのが嫌な私は、ハッキリ説明してくれる先生が楽だった。
聞きたいことも遠慮せず聞ける。
先生は言葉を濁さず答えてくれた。
手術が終わって入院生活が始まる。
食事は食堂で集まって食べた。
乳腺専門の病院だったから、同じ手術をした人同士。
お互いの病状や家族のこと、いろんな話をしながら食べた。
痛みや大変さがわかる。
みんなすぐに仲良くなった。
Yさんはいつも私の真向かいに座っていた。
46歳だった私より、10個ほど年上だったと思う。
朝ご飯を食べると、ウィッグをつけて着替え、病院から仕事に行く。
「再発だからね。治療も限られてくるけど、先生いろいろしてくれてるから。口は悪いけど、いい先生だよ。」
Yさんは病院近くのアパートに1人で住んでいた。
調子が悪くなると入院し、病院から仕事に行く。
「見て。」
Yさんがスマホを差し出す。
お弁当の写真。
「すごいですね。お弁当、凝ってる!」
「主人が作ったお弁当。毎朝、写真に撮って送ってくるんだよね。」
「えー!ご主人、マメなんですね!」
「いなくなってからだよ。」
「…?」
「私がいなくなってから。」
「……。」
「再発してね。私、もう1人になりたかったの。結婚してからずっとお姑さんのこととか家族のこととか、散々やってきて本当に疲れちゃった…。最期ぐらい1人になりたくて、病院の近くにアパート借りたんだ。」
最期ぐらい1人になりたい…
今までどれだけがんばってきたんだろう。
「主人はなんにもできない人だったのに、お弁当作るようになって…。やればできるじゃん!ってね。遅かったけどね…。でもこれから主人自身のためにはなるよね。」
「3番目の娘がさ。看護学校に行ってて、来年卒業するんだ。だから卒業式は出てあげたいなって。それまで生きててあげたいなって。」
卒業式まで、あと9ヶ月くらい。
「今こんなに元気だし、お仕事にも行かれてるんだし。大丈夫ですよ、きっと。」
Yさんは、ふふっと笑った。
「乳癌てね。プクプク太って『元気そうだねー!』なんて言われて、ほんで急に死ぬんだよね。」
「……。」
そうなんだ…
私は乳癌についてまだよくわかっていなかった。
Yさんは生きることに執着していないように見えた。
悔いがないほどがんばってきたんだろう。
娘さんの卒業式まで。
ただその日だけを目指しているように見えた。
晴れた日。
Yさんと、もう1人の患者さんと3人で屋上に上がった。
街から離れたところにあった病院の周りは緑が多い。
「風が気持ちいいねー!」
本当に気持ちがいい。
目に入る緑も綺麗だ。
ウィッグを外してるYさんの頭には、産毛のような毛が生えている。
「ツルツルになってもまた生えてくるんだよね。ウィッグがいらないくらい生えるかなぁ。」
キラキラ光る光の中の、Yさんの笑顔を覚えている。
退院してからもYさんとは時々LINEのやり取りをした。
Yさんはいつも丁寧に返事を返してくれた。
可愛いスタンプ付きで。
ある日を境に返事が途絶えた。
(今は具合が悪いのかもしれない…。)
あまり考えないようにした。
毎日、新聞のお悔やみ欄を見ていたわけではない。
その日たまたま見たお悔やみ欄に、Yさんとまったく同じ名前があった。
年齢も同じくらいだけど…
同姓同名かもしれない。
そう思ってたところに、同じ頃に入院していた患者さんからLINEが入る。
「新聞見た?」
「はい。」
「Yさんなのかな…。」
月に1度の点滴の日。
点滴の針を刺す看護師さんに聞いてみる。
「新聞にYさんと同じ名前があったんだけど…。」
「えぇ…。緩和ケアされてたんですけどね。」
Yさんだった。
娘さんの卒業式まで持たなかった。
病院で一緒だった時から半年くらいしか経ってない。
「元気そうに見えてコロッと…。」
笑いながら話すYさんの言葉を思い出す…
私も5年の治療が終わった。
Yさんと話してた頃は、手術直後で治療を始めたばかりだった。
私は抗がん剤を使わなかった。
手術後の痛み、腕を上げるリハビリ、放射線治療、分子標的薬の点滴、ホルモンの分泌を止める注射、内服…
(私はHER2陽性乳癌で、分子標的薬という新薬が使えた。ただHER2陽性の人は、普通の人の何倍も乳癌になりやすいらしい。)
副作用による体の痛みもあったし、皮膚も脆くなった。
気力の落ち込みもあった。
否応なく体から力が抜けていくような感覚を初めて味わった。
Yさんはこの治療にさらに抗がん剤を加えて、どれだけの間治療してきたんだろう。
治療しながら仕事して、家のこともしていただろう。
やっと登り切ったと思う山の向こうに、さらに高い山が見えてくる。
また登らなければならない。
再発した時、もう家族の世話までする気力は残っていなかったかもしれない。
自分のことだけを考えて、自分の世話だけをして…
最期はそんな時間が欲しい。
本当に欲しい時間だったんだと思う。
今も、
おひさまに照らされてキラキラしていたYさんの笑顔を覚えている。
記憶に残る笑顔に癒され、力をもらう。
Yさんも私との思い出を持っていってくれただろうか。
Yさんが通った道を、いずれ私も通るだろう。
Yさんの言葉、Yさんの笑顔をずっと思い出していくだろう。
娘さんの卒業式に出る。
最後まで目標を持っていたYさん。
Yさん。
出会ってくれてありがとう。
私も、
ささやかでも目標を持って生きます。
そこにたどり着けなくても、
私も悔いがないように生きます。
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