あのとき私が寝ていたら
あれはいつ頃だったかな。
小学生だった。
朝、いつもより早く目が覚めて、
私はご飯を食べていた。
言い争う声。
またか…
体が硬くなる。
ドクドクドク
鼓動が早くなる。
あの声が大きくなれば、また始まるかもしれない。
ピリピリした空気。
ビクビクしながら食べるご飯。
味がしない。
でも学校だし…
無理やり口に詰め込む。
その時、
ドォンッ!!
え…
ものすごい音がした。
父が叫んでる。
なに言ってるかわからない。
いつもよりひどい。
廊下に飛び出すと、
外れた襖の上に母が倒れていた。
倒れた母に馬乗りになった父が、
母の首を絞めていた。
大声で叫びながら、
言葉にならない言葉を叫びながら、
腕に力を込めてるのがわかる。
あ…
死んでしまう!
気づいたら父に体当たりしていた。
よろけた父の下から、母が這い出し逃げて行った。
父が私を見下ろす。
赤く血走った目。
正気を失った人の目。
こっちを見ている。
いや、
見ていない。
何も見ていない。
そこに父はいない。
体が震える。
涙が出てくる。
声をあげて泣いた。
「うるさい!泣くな!!」
さらに泣きそうになる。
泣いちゃいけない。
泣けばもっと怒られる。
しゃくりあげそうになる声を必死でこらえた。
体の震えは止まらなかった。
学校へ行く時間。
ランドセルを担いで外に出る。
泣いちゃいけない。
泣いていてはいけない。
集団登校の集合場所へ向かう。
友達におはようを言う。
学校に着いて、授業が始まる。
さっきとは別の世界。
学校用の自分になる。
学校が好きだったわけじゃない。
多くの人の中に座っていることは、
私にとっては苦痛だった。
それでも家よりマシだった。
授業を受けて、給食を食べて、下校の時間。
家に帰る時間。
下駄箱で靴をつかんで、うつむいた。
ボタボタボタ…
たくさんの涙が落ちた。
止まらなくなった
後ろに来た男の子が気づく。
「どしたん?」
「なんでもない。」
走って外に出た。
涙が止まらない。
男の子が後ろにいる。
「どしたん?」
何度も聞いてくる。
「…大丈夫。」
たぶん何か言おうと思った。
でも、なんて?
言葉は出なかった。
また帰る。
あの家に帰る。
それだけで涙が出た。
誰にも言えない。
言おうとも思わない。
言ったところで変わらない。
私には何もできない。
私があのとき寝ていたら、
お母さんは死んでいたのかな。
お父さんは逮捕されて、
私は犯罪者の娘になって…
私は大人になった。
父が亡くなり、
母も亡くなり、
もう怯えることはない。
殴る姿も、殴られる姿も、
もう見ずにすむ。
それなのに思い出す。
べったりと脳裏に焼きついたあの光景。
体の芯に刻まれた大きな音。
そしてやっぱりときどき思ってしまう。
あのとき、もし私が寝ていたら…
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