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『裸のランチ』ウィリアム・バロウズ(訳 鮎川信夫)、読書メモ

※ネタバレ注意です。

作品の基本情報と概要

1959年に出版。1950年代のアメリカ合衆国、ビート・ジェネレーションを代表するウィリアム・バロウズによる長編小説。

麻薬から立ち直ったバロウズが1956年から執筆を開始。完成した原稿をパリのアレン・ギンズバーグに送り、ギンズバーグからパリの出版社オリンピア・プレス(※)に持ち込まれた。

※オリンピア・プレス:パリのアングラ出版社で、ウラジーミル・ナボコフ『ロリータ』やサミュエル・ベケット『マロウンは死ぬ』などを出版。

麻薬係刑事に追われたジャンキーの主人公が、西に向かって発つところからはじまる。冒頭から若干怪しさは感じつつも、主人公の旅がストーリーのメインとなるのかと思いきや、次のページからはストーリーも筋立てもなにもない。現れては止まない連続の悪夢のように、極彩色のイメージが次から次へと続いて終わらない。

麻薬漬けのジャンキーになった男が、麻薬による悪夢を見続ける話である。

支離滅裂な麻薬中毒者による記録

本編が始まる前に「宣誓書ーーある病に関する証言」として序文が付されている。始まりはこうだ。

わたしは四十五歳で病から目覚めた。穏やかで正気で、比較的いい健康状態で。ただし、肝臓が弱り、この病を生き延びた者すべてに共通の、肉体をよそから借りてきたような外見になってはいたが……。

ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』鮎川信夫訳(河出文庫)P.7より

いわゆる、私たちが学校で習って写真などで見たことがあるような、麻薬中毒者の典型のような状態が頭に浮かぶ。そして、こう続けられる。

生存者のほとんどは、あの病の譫妄状態をあまり詳しく覚えてはいない。私はご承知のように、病とその譫妄状態について詳しい記録をとっておいた。

ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』鮎川信夫訳(河出文庫)P.7より

語り手である主人公は、バロウズとはまったくのイコールではないにせよ、著者の実体験がふんだんに盛り込まれているらしいことは間違いなさそうだ。多くの脚色やフィクションが混ざったとしても、これが世界のどこかで起きていることであるという気配がする。

宣誓の補足の中で、記憶がないというのは誇張だとしつつも、麻薬中毒者は「情動に関する記憶」が乏しいのだという。このあと語られる話は、目の前で起こったことが淡々と並べられていくらしいことがほのめかされる。

しかし、序文を読み終えて本編を読みはじめてみれば、何やらおかしい。はじめは麻薬係刑事に追われて登場した男が、何やらべらべらと話し出すのだけれど、話し始めたときのかぎ括弧は閉じられないまま、わけのわからない人物たちの話がつぎつぎと捲し立てられ、その誰もが奇妙なことをしている。

いつのまにか、今、自分が誰の発言を読んでいたのか、そもそも何の話だったのかがわからなくなる……。これこそが、麻薬中毒者の意識。なにかもが支離滅裂に現れ、現れては消えていく。しかし終わらない。出口のない悪夢のように。

読むことは、苦痛かもしれない

話の筋立てやプロットや、一貫した登場人物たちがいると思って読んでいると混乱する。ちょっと前に読んだ文章も覚えていることができないぐらいにめちゃくちゃなのだから。

だから、この作品は精読しようと努めてはいけない。

正直、読み始めは苦痛でしかない。誰だって、わけのわからない話を延々と聞かされるのは苦痛でしかないだろう。最後にオチがつかなければ「で、それで?」となるだろう。

オチがつかないどころか、知らない名前、固有名詞が次々出てくるし。そのわりには変なところが馬鹿みたいに細かくくどくど説明されるし。さっきまでしていた話がいつ終わったのかもわからないし。けっきょく誰がどうしたのかもほとんどよくわからないうえに、醜悪で下品な性行為の描写ばかり鮮明に書かれていたりして胸焼けがする。

しかし、それでもこの話を読んでいて、安らぎを感じる瞬間がたしかにあった。

病院の待合室でのことだった。待合室では、国会中継が流されていた。高齢者に配慮してなのか、音量もそこそこ大きく、待合室のどこにいても議員たちのやりとりの声が響いてくる。

カバンにしまっていた読みかけの『裸のランチ』を取り出して読み始めたとき、私は何かに守られているような、安らぎを覚えた。

相変わらず、国会中継は聞こえてくる。声ばかりはきはきとして、まるで誠意のない答弁を繰り返し、ただただその時間をやりすごすことにばかり躍起になっている政治家たち。まるで、頭の痛くなるようなやりとりを見せることで、人々の目を政治から反らそうとしているみたいに。

でも、文章に目を落としているあいだは気持ちが落ち着いた。

物理的には逃げ場がない

何度読み返してみてもとても癒されるような文章ではないし、なんならこのnoteをまとめるときに再読をしたときは苦痛でさえあった。

それでも、あのとき確かに『裸のランチ』によって私の何かが守られたらしいし、どこにも物理的な逃げ場のなかったあの場所で、安全な場所を見つけることができたのだ。

苦痛としか思えない麻薬中毒者の意識も、物理的な逃げ場のない状況から逃亡するにはうってつけの場所なのかもしれない。

確かに、筆者は最初にこう述べていた。

中毒者は、事実関係の記憶は非常に正確で細部にわたっているが、情動的な記憶は乏しい。重度の中毒者にあっては実質的に皆無に近いほどだ。

ウィリアム・バロウズ『裸のランチ』鮎川信夫訳(河出文庫)P.19より

意味のわからない文章に身をまかせてしまえば、楽になる。なぜなら、そこには意味がないから。何かできごとがあったときに、心が感じるから苦しくなるのだ。何も感じることがなければ、目の前で起きていることは起きていることのまま、意味も感情も何もなければ辛くもない。怒りもない。焦りや心配ごとや、その他不都合なことはいっさいない。

なお、このような意味内容を捉えることができない文章は、作者であるバロウズが意図したものだ。文章をばらばらに切り刻んでつなぎ合わせる「カット・アップ」や、ある文章を折りたたむことで違う文章とつながるようにする「ホールド・イン」と呼ばれ、バロウズが絵画におけるコーラジュの手法を文学に取り入れる試みをした結果だ。

バロウズ自身、言葉による支配から逃れるために、こうした手法を用いたらしい。

他作品への影響

カートコバーンが愛読していたという話は有名。ただ、影響を受けた作品はあげればキリがないと思う。

ちょっと意外というか、おもしろいところで言及されていたのが、片山恭一の『きみの知らないところで世界は動く』の中で、主人公の友人で変わり者のジーコが、昼休みに読んでいた本がバロウズの『裸のランチ』だった。初めて読んだ当時は、中学生か高校生ぐらいの頃でバロウズも裸のランチも知らなかったけれど、今読み返してみるとジーコらしくて微笑ましい。

また、バルガス・ジョサ『若い小家に宛てた手紙』では、文学的天職について書いた章において、バロウズに関する言及がされている。

私は小説家バローズにはまったく興味がありません。実験的でサイケデリックな彼の物語はおよそ退屈で、たとえ読みはじめたとしても最後まで読み通すことのできる作品はひとつもないでしょう。

バルガス・リョサ『若い小説家に宛てた手紙』p.19より

と、辛口でコメントしたうえで、バロウズの別作品『ジャンキー』を挙げつつ、

ここに見られる描写は文学的天職がどういうものかを正確に語っていますし、文学を天職にすることによって作家はその仕事に全面的に依存し、仕事は仕事ですべての面で作家から養いをとっているということも述べられている、と思われます。

バルガス・リョサ『若い小説家に宛てた手紙』p.19より

と述べている。小説家とは、小説に奉仕する存在なんだとしみじみ。


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