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ジャポニカとマーヤと愉快な だてひろし

ジャポニカさんには失礼だが、私にはジャポニカにトラウマが有るのです、いや、ジャポニカに八つ当たりしていたとでもいいましょうか、全てジャポニカのせいにしてしまえばいいっていう卑怯な子だったのかもしれない、そんな私のジャポニカとの関わり合いを今回は書いてみます、ネ!
私の「ファーストジャポニカ」は確か小学校に上がる直前でした、
幼稚園とか行って無かったので母が焦って「アンタ、少しは予習しておきなっさ~い!勉強なっさ~い!」みたいな勢いでぶっ込んで来たのがジャポニカ学習帳でした、私は表紙を観て「ああ、、てんとう虫さんだぁ、エヘヘ、へ、、」みたいに喜んでいた、綺麗なパンジー的な花にたかるテントウ虫やミツバチ(たかるって、、)の表紙写真、最初にジャポニカから学んだ事は、綺麗なお花にハチさんや、てんとう虫さんが集まって楽し気ですね!だった、それは当時のテレビでもてんとう虫のサンバだったり、ミツバチマーヤだったりやっていたので「ああ、それそれ、知ってる知ってる!」と心躍っていたのです、母から与えられたファーストジャポニカは国語ノート?で、ひたすら五十音を書かされていたけど、その時はあまり苦痛では無かった、ハチさんやてんとう虫さんも愉快に応援してくれている気がしていた、
そしていよいよ小学生、季節は春、私はそれはもうウッキウッキしながら小学校に通い始めたある日の朝、道すがらに咲いていた花にミツバチさんが止まっていたので「ああ、、マーヤだぁ、エヘヘ、、」とか言ってミツバチを指で触ってみたが当然刺された、痛い、クッソもんの凄く痛い、みるみるうちに左手の人差し指は腫れ上がっていった、シクシク泣きながら登校し、驚いた担任の先生から手当をしてもらった、あれがもしスズメバチだったらそれで死んでたかもと思うと少しゾッとする、、だって、マーヤはおしゃまな女の子じゃなかったのかと、ちょっと指先でちょっかいを出しただけなのに痴漢扱いされ過剰防衛された訳だ、、、、いや、どう考えても私がが悪いか、、だので大人になった現在でもちょっとくらい知らないねえちゃんのケツ触ったっていいじゃんかよなぁ、、、そして小学校低学年を進む中、私は破竹の勢いで勉強に付いていけなくなっていき、母の怒りはどんどんエスカレートして行くが何せ母も「舘ひろし」を「だてひろし」と呼ぶ程のユニークな方だった為、ユニーク同士でユニークから抜け出せない、唯一母が出来る事は事ある毎に私を正座させ、平手で太ももをひっぱたきながら「勉強しろ!」と怒鳴りつけ、数冊買って来たジャポニカを叩き付けることだけだった、勉強が出来ない、頭が悪い、ノルマとして課せられたジャポニカ、もう完全に打ちのめされた、それが私の「セカンドジャポニカ」だった、
空はこんなに青いのに、風はこんなに暖かいのに、ジャポニカの表紙も暖かいのに、どうしてこんなに恐ろしいんだろう?
勉強が出来ないから頭が悪い?、頭が悪いから勉強が出来ない?、を無限ループした状態から抜け出せない、完全に落ちこぼれたまま高学年に進んでいった、そして高学年にもなるとちょっと良いお家柄なコケティッシュな同級生達は「キャンパスノート」を使い始めたが、英語の「campus」が読めないからワケが分からなかった、ちなみに英国のパンクバンド、
The Stranglers「ストラングラーズ」を「ストレンジャーズ」と読んでしまう51歳の現在がそれを物語っている、、ストレンジャーズてオマエ、それアメリカのホラー映画かよと、、地獄からの訪問者かよと、、
そして高学年になっても自分だけジャポニカを買い与えられていた私は脳死プレイ状態でジャポニカ装備で挑み続けていた、見るに見かねた同級生の女子達から「アンタさ、未だにジャポニカってw子供じゃないんだからサw」と、同じ子供に言われていよいよジャポニカに別れを告げた、あのマス目大き目のジャポニカは気取ったキャンパスノートなんかより実は「実」を取っていて理にかなっているというのは大人になってから分かったことである、私が思う「キャンパス病」というのがあって、あのオシャレな細いマス目に細かい文字こそスタイリッシュだみたいなのを覚えてしまうと大人になって、社会に出てこじらせてしまう人は結構いると思う、職場の若いのも「それ後で自分で読めんのかぁ?」ってくらいに小さい文字でメモを取る速度も遅すぎてヤキモキする、そこはジャポニカで鍛え上げられた自分は大きく堂々と書く、字が間違っていても間違いだと誰の目にも明らかだ、だがそれでいい、人から見て分かりやすいというのはいいことなんじゃね?とは思う、誤魔化しが効かないので頭のいい人が「そうじゃねえだろ?」って教えてくれる、奇しくもそういう頭のいい人と縁出来たのは社会に出てからだったけど、そういう恩人の方々から見ればやはり「わかりやすいヤツ」だったのだろうと思う、まぁその分、どんぐりの背比べしてる連中からしたら格好の餌食ではあるが、、そんなジャポニカとは自分にとって一体何だった
のだろうか?それはあの昭和53年、ピンクレディーの「UFO」が流れてた時代、今より何にも無かった、そう思うとジャポニカ学習帳は高級なノートだったことを今になって知る、それをホステスで頭がユニークだった母はジャポニカを買う為に1滴もお酒を飲めない体質ながら麦茶で飲んだフリをして接客し、その稼ぎでジャポニカを買って来てくれたかと思うと少し涙が出てくる、だので私の中では今でも舘ひろしのことを「だてひろし」と呼んでいる、なんならジャポニカのマス目にだてひろしと堂々と書いてやりたい、母は志半ばで逝ってしまわれたが、親子共にユニークながらも伊達に世の中渡って来た訳では無い、だので、そこの塞ぎ込み諸君達よ聞け!(事情も知らずに安易に説教を始めるタイプ)
世間に、臆するな、「ジャポニカの伊達男」でいろ!(K-1選手の異名みたいに言う)そして蜂女に刺されるといろいろ後々大変だからヤメておけ!
っていう講演で1人2000円×100人で20万、わぁ、20万だぁ、エヘヘ、、ユニークな頭脳は健在です、、

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