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思考における機械仕掛けの神を疑うこと

前提

最近、「主観」と「客観」というワードを
よく耳にする。

「主観」にハマりすぎることなく、
「客観」を大事にすることで、物事の妥当性を保てるというのだ。

はぁ。
なるほどね。

まるで、絶対的な神威だと
言わんばかりの民意ではないか。

あまりにも視野が狭い。
体系的な概念を疑うことが哲学。
であるのならば哲学しよう。

創作物からの帰納的思考

古代ギリシアの演劇の技法として、
機械仕掛けの神(デウス・エクス・マキナ)なるものがあるらしい。

どんなものかというと、
劇中の困難な状況に絶対的な力が働いて、
物事を流動的に解決していくという手法らしい。

冪等性にハマった愚かしい人間への皮肉とも
とれる、なんとも憎らしい神である。

要するに、物事を上から見下ろすメタ視点を持った(客観)者が強いということだろう。

ここで着眼したのが、「機械仕掛けの」という点だ。

機械、つまり感情を持たない合理の権化。
行き詰まったら、合理のみで判断しろというのか。













人間らしくないなぁ。

全てを良い悪いで判断できるなら、
人間なんて不完全な生き物が産まれてくるわけがないんだよ。

時には直線しか見ない選択があっていい。
全能視なんかなくたって良い結果になることだってある。

客観ってのはあくまで手法でしかないということを知って欲しいわけです。
主観に頼りまくるというのも悪かないんです。

「視野が狭い」ことは、
より鮮明に色を見ることなんです。

うん。そゆこと。
メタ視点がなんだってんだ。
平面にある世界も素晴らしいのよ。

機械仕掛けの神よりも強い「感情」を
信じてみる。

それが今回の哲学の答えでした。

終わり!

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