誰かと暮らした記憶

すっかりと一人でいる生活が定着した私だが、誰か他人と暮らしたいなあ、とは今も思う。

そういえばかつての元彼と同棲していた頃のことを思い返すと、家族以外の他人と暮らすことは自分にとって良い経験だった。冬場の寒さが和らいだとか、寂しくなくて良いとかそういう利益に加えて、人間としての成長に繋がった。
他人との同棲から得たことの中で、特に大きいのが「他人に寛容になれたこと」である。以前の私を知る友人たちに言わせると、人間性が「めちゃくちゃ丸くなった」そうだ。
元彼と同棲する以前の私はトゲトゲしていたらしい。確かに、私は他人に不寛容だった。大学の1~2年の頃は、講義に遅刻してくる人とか代返を頼んでくる人とかテスト直前に範囲聞いてくる人なんかが大嫌いで、大体全部無視していた。
そんな私が、元彼と暮らすようになってから寛容になった。テスト直前に範囲を聞いてくるタイプの人とも仲良くなり、彼らに勉強を教えるようになった。そのおかげで勉強内容が定着したので私にとっても良いことだった。

この変化の理由はなんぞやというと、多分、他人と暮らしてみて、「人間ってそんな大層なもんじゃないな」と気づいたことが大きいと思う。
そのきっかけは、数年前、飲み会の席のことである。ボスの教授に「プライベートは順調?」と聞かれた際に、今思うと教授に何てことを言ったんだろうと思うが、「彼氏がトイレにおしっこを撒き散らかして汚すのに腹を立ててます。注意しても中々直らんのです」と愚痴った時のことである。
これに対して教授は「それ、ボクも嫁さんに何回も言われた!もう直したけどね!今は息子がおんなじことで叱られてる!」と言って、わはは、と笑ったのだった。

私はおや、と思った。
「何回も言われた」ということは、何回も直さなかったということだ。
頭脳キレキレで、業績も多く、研究費もしっかり獲得してくる有能なウチの教授が、「メモをきちんと取って何度も聞きかえすことがないように」と学生に厳しく指導するウチの教授が、奥さんに何回も『おしっこを散らかすな』と叱られているなんて。この会話は私にとって衝撃的だった。
それからというもの、「あのエリート教授ですらトイレにおしっこを散らかして奥さんに何回も怒られているんだから、その辺の人なんてもっと何も出来ないんだろうな」と考えるようになり、他人にイライラすることがなくなった。
元彼は野生児タイプだったので、おしっこを散らかすことをはじめとして、脱いだ服をカゴに入れずにその辺に放置するわ、足に泥をつけたまま部屋に上がってくるわ、暑いからと言ってすぐパンツ一丁になるわ…と「オイ!」と怒りたくなることが沢山あったが、私は多少「オイ!」は言うものの、基本的に全部許すようになった。講義に遅刻する同期も、朝が苦手なだけで良い奴だったし、皆なんだかんだ可愛らしい人間なのだし、少し何かが出来ないだけでその人自体を嫌うことは無かろう、という気持ちになった。

そりゃまあ出来ればトイレは汚さないでいて欲しかったけれど、私の人間性を改善して「他者への寛容性」を与えてくれたという点で、彼には今更ながらに感謝している。
誰かと長く暮らした記憶というのは今の自分を形作っているんだなと感じた。

こんなことを振り返って考えるなんて私は死期が近いのかしらと思われるが、実際は、就活のために自分のことを振り返っていたら、就活に使えそうもないくだらないエピソードがぼろぼろ出てきたので、供養がてらに書きたくなっただけである。お下品な話でどうも失礼致しました。

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