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手を合わせ願う。それは、目に見えぬつながりを想う気持ち

数十年間、仏壇にも、お墓の前でも、手を合わせることはなかった。申し合わせたように兄も同じだった。一緒にお墓参りに行くときに見た兄は一度も手を合わせることはなかった。1人で行くときはどうだったのだろうかと考えてもそれを確かめる術はない。

手を合わせるようになったのは、藤原 新也の「なにも願わない手を合わせる」を読んでからのように思う。それまでお墓・仏壇だけでなく神社仏閣で手を合わせることにも疑問があった。何故、神様に自分のお願い事を願うのか?神頼みということがひどく自分勝手な行いに思えたからだった。母は父の仏壇やお墓に向かって手を合わせ、兄妹の健康やそのときどきのお願い事をしていた。

「さつきのことを、お父さんに頼んでおいたからね」
母はそんなことを言う度に「お父さんはここにいないし神様じゃないし、そもそも神様に何かお願い事をするのだって変なのに頼んだって何もおきないから」と、こうテキストにするとさらに酷く思えることをいつも母に言っていた。仏教の教えによるところの「魂」の存在がそんな考えになってしまったように思う。肉体に司る魂は、輪廻転生により別の肉体へ蘇る(人間界じゃないかもしれないけれど)。今生の修業により悟りを開き、輪廻の輪から解き放たれ解脱へと進む。

この世から肉体が滅んだあと、魂はどこか別の場所にいる感覚があるから、母の「お父さんに頼んでおいたから」に異論しかなかった。父の魂はここではないどこかにいるからと。

手を合わせる=願うこと、そんなことを思っていたのが藤原 新也の「なにも願わない手を合わせる」を読んでから、そっか、ただ手を合わせるだけでいいんだよなと思えるようになった。

それと合わせて、アニメ「エヴァンゲリオン」のなかでゲンドウとシンジがユイ(シンジのお母さん)の墓へ行ったときのゲンドウのセリフが、それまでなんとなく行っていたお墓参りが意味があるものになったと思う。

「人は思い出を忘れることで生きていける。だが、決して失ってはならないものもある。ユイはそのかけがえのないものを教えてくれた。私はその確認をするためにここに来ている」

「すべては心の中だ。今はそれでいい」

今日は1人で兄のお墓参りに行ってきた。
母は転倒してから2ヶ月の間1度も行けてないと言うので、兄のお墓の前で「お母さんが怪我が良くなりますように」と手を合わせてお願いしてきた。

お願いしたところで何になる、なんて思っていた私はきっと子どもだった。お願いすることは、叶うことが目的なんかじゃない。目に見えぬ人たちとをつなぐ想いだ。

母は朝起きると、位牌に向かって手を合わせながら話しかけているのを一緒に暮らすようになって初めて知った。聞けば父が亡くなってから25年間ずっと行ってきた朝の習慣だそうだ。そうやってつながりを持ってきた母は今きっとそれさえもできていないと思うから、それを私が引き継いでやっていくことで、つながりの橋渡しをできたらいいなと思う。

「なにも願わないただ手を合わせる」を読んで手を合わせられるようになった私が、いまではつながりたいという願いを持って、お墓の前で手を合わせている。

最後まで読んでいただきありがとうございます。頂いたサポートをどのように活用できるかまだわからないです・・・。決まるまで置いておこうと思います。