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勝手な期待、勝手な失望。

自分を頼ってもらえるのはありがたいけれども、正直その頼りすべてに応えられるわけではなくて、僕はこの地域におけるスーパーマンではない。たしかに地域おこし協力隊という性質上、“ふつうの人”よりまちづくりに関する人脈や事業の実績は多いのかもしれない。しかしながらあくまでいち個人であり、得意分野や興味関心、あるいは得意な人や苦手な人がいて当然である。

そんな中、たとえばその頼りに応えることができなければ、僕は相手から失望されることになる。少なくとも声をかけてくれるほどの期待はあるわけで、ひょっとしたら要求に応えられるのがプロフェッショナル、なんていう感覚もあるのかもしれない。ただ、期待が大きければ大きいほど、当然失望も大きくなる。あえていえば、僕は向こうの都合で勝手に「なんでできないんだよ」とがっかりされるのである。

原因および解決策は、大きくふたつあると思っている。ひとつは、期待する側が見当違いであること。たとえば僕が求められることは本当にありがたい限りなのだけれども、そもそも自分が適任なのかという視点もある。いや僕以外のケースだって、そもそもそこまで見込めないものを望んで、結局打ち砕かれて、そして相手を恨んでしまうパターンを頻繁に見かける。まあきっと簡単ではないからよく見かけるのだろうが、自分も誰かを頼るときは照準をしっかりと合わせたいと思う。

そしてもうひとつは、そうして頼られた側のコミュニケーションである。いわゆる期待値コントロールと呼べるものかもしれない。今回の僕ならば、ここまでなら応えられるがこれ以上はむずかしいと、はっきり線を引くことが必要とされていたのだろう。容量以上の期待を感じながら何も言葉を発しないことは、無責任とも捉えられる。期待を感じるぶん言いづらいときもあるが、自分の責任をまっとうしたい。

いずれにせよ、やはりコミュニケーションの問題に帰結する。個々人が持つイメージですれ違うのは仕方ないとして、その先でしっかりとリカバリーショットを打てるか。帳尻を合わせられるか。そこに向き合い対話できる人を、「人間力がある」と呼ぶような気もしてきた。人間は勝手な生きものだという前提を持って、それこそそこに期待を持たずして、適切に対処できる人でありたいと思う。

いつもいつもありがとうございます〜。