恵まれてる人間は幸福なわけではないという話
人生雑感の話とリンクするのだが、別に生まれつき恵まれてる人間って全然幸福じゃないんだな、と思ってる。
幸せかどうかは客観的に誤魔化しが効かない。
病のせいで氷水に腕を突っ込み上半身を起こしながら仮眠を取り、親からは虐待され、親戚からは他人事で憐れまれながら半額の菓子パンを齧っていた私からすれば、「五体満足で、家に帰ったら怒鳴られずに、料理が出てきてきちんと眠れる」という生活がとても遠くにあった。
自分の不幸や苦労を語る人間に対しては、基本的に何も言わなかった。親から犯されてからモノ言えよ、と淡白に思っていた。因みにそれを親戚に話したら揉み消されました。
いいよなぁ、苦労を語れる人間って。ドン引かれるレベルじゃないからそれ言えるんだぜ、って思いながら生きてたら周りも当然ワケアリばっかになるし、やっぱりドギツイの喰らってる奴らは、いつだってみんな粛々と己に降りかかってきたものと自分で戦っていた。
その遠かったものを大体手に入れて、人を助ける側に回れるようになってから見た恵まれている人間は、なんとも無味乾燥な生き方をしている人たちだった。
今が良ければそれでいい、合理的に考えて正しければそれでいい。
うーーーん、すんげぇ下らないぞ??私はこんな奴らに憧れていたのか?
否、自分には無い物を手に入れたかったのだ。
初めからあったものに心の底から感謝できる人間なんて、他者と本当に深くまで触れ合ってその違いを認識できた人間だけだ。
恵まれているのに心の底から私を尊敬してくれている人間を大切にしていた。今から思えばそらそうだよな。親にぜーんぶレール敷いて貰ってた人間から見れば、私と比較すると自分がどんなに怠慢に生きてきたからわかるはずだもの。
なんでこんな奴が私によくしてるんだろうって思ってたけど、そら私でも、なんも頑張ってないのに自分は努力してると思い込んでるやつと、頑張ってる人間となら頑張ってるやつに敬意払って応援するもんな。
あと私が良かったのは、自分の不幸を語りたがらなかったところで、多分アピールが上手い人間はもっと安っぽい同情を勝って共感されて生きるんだろう。
んで結局自分の苦しみは理解されずにもがきまくる。
初めから人の内面に対して誠実な人間しか寄せ付けないから、わざわざ下らない時間を割く必要がない。
そういえば、昨晩、なぜ知識が豊富な人間からは基本的には知性が感じられないのか?という論点で議論したのだが、知性とは、人格や品性が内包されているものであり、単に知的好奇心の赴くままに生きている人間はそれとは異なる、また、本質的な正解を導き出す計算能力の一種ではないかという意見が出て大変興味深かった。
物事の解像度を上げる作業と、情報収集する作業は同時には両立しないし、だからこそ後者に終始する人間は信頼されない。自分がどう行動するか、という現実とリンクしない話なんて、文字通りただの言葉遊びだからだ。
うーんそうか、だから、ただ遊んでいる人間の周りには、本当に深いことを言える人間は居ないんだなと。だから、わからないものはわからないままで、自分なりに理解してそれで終わるんだなと。
勉強と違って、人間に対しての答え合わせは、信頼がないとしてもらえない。答案に対して点数が返ってこないから、答案をそもそも人に出さない。もしくは、帰ってきた点数を信頼しない。そもそもら信頼関係が形成されてなければ、本当の点数なんて教えてもらえないから。そして、自分も相手の答案なんかに興味がない。
人と向き合うのってカロリーいるからなぁ。でも、恵まれている人間はそのカロリーを消費しなくても人間関係が築けた人間で、だからこそ何もわからないんだ。
そう、だから私は漸く、恵まれているんだなとひしひしと感じている。真剣に検討して、前に進める人たちと話すことができていて本当に良かった。
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