読書と体験

僕が学生の頃はたまに、本ばかり読んでいても実際に外に出て体験をしないと何にもならない…というようなことを年長の方から言われることがあった。
最近は読書をする人自体が減ってきたからかこうしたことを言われることは少なくなったように思うが、趣味欄に読書と書いているだけでこうしたネガティヴな反応をされることが昔は少なからずあった。

当時の自分は、そうしたことを言われるたびに何か違和感を感じながらも、その違和感の正体がつかめず、なんとなく黙って飲み込んできていた。

ただ、今はその正体が分かる。大きく二つあり、まず一つは、読書が趣味だと書くだけで、「外に出て体験を」していないと決めてかかられるようなきがしたこと。もう一つは、自分にとって、読書という行為はインプットでもなく、内省の機会でもなく、それそのものが「体験」であり「実践」ととらえているということだ。

同じ本を読んでいても、読んだ時の場所、時間、自身のコンディション、読んでいる最中に自身に何があったかで読書を通じて考えることも、得られる感情も全く異なるものだった。それは常に、自身の他の体験とともに存在していた。

例えば僕がいま現時点で人生で一番心が震えたと思っている本はカズオ・イシグロの「忘れられた巨人」だ。そして間違いなく、本の内容だけでなく、その読書体験を含めて「人生で一番」だと感じている。

数年前、ようやくコロナが落ち着いて旅行ができる雰囲気になってきた時に、妻と、少し奮発して部屋付き温泉のある旅館に泊まりに行った。
その日僕は、少し傾いてきた西日を頼りに、とぽとぽと湯口から流れ込む湯の音を聞きながら、窓から吹き入れる風にのぼせゆく頭を冷やしつつ、風呂場に「忘れられた巨人」の文庫を持ち込んで読んだ。

宿に着くまでに疲れた妻はすぐに昼寝をしていた。
個室に備え付けられた浴室は窓の外が森に面しており、都会住みの自分には普段感じられない、夜を迎えつつある緑の湿った匂いがした。読み進めるうちに少しずつ日が落ちていき、本を読むには暗くなってきた。湯室の電気をつけることもできたが、これ以上入るとのぼせ切ってしまいそうだったので途中で本を閉じた。その間、長くても30分程度の出来事だったと思う。ただ、その短い時間の間中ずっと、自分の内側を何者かにごく弱い力で、ただ優しくはない力でグッと握られたような感覚になったのを覚えている。

西日特有の赤い光、水気を含んだ森の匂い、部屋で昼寝をしている妻、そうしたその時の状況全てを込みで、「忘れられた巨人」の世界観が自身の中で明瞭に立ち上がり、文字から生まれる情報だけではなく、それを読んだ時の自身の五感と感情が記憶に残っている。
これを「体験」と言わずしてなんと言おうか。

本を広げ、或いはKindleを立上げ、目で文字を追いかけているのではない。本を読むとき、そこに体が存在し、耳は何かを聞き、肌は何かを感じている。本を読む前、そして読んでいる最中に起きた出来事に心も揺さぶられている。読書という行為を通して流れ込んでくるのは文字とその情報だけではない。

僕らは全身で本を体験している。

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