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「命の機微」第4話

「なんだったんですか、今の電話」

 坂下真由が、待ち構えていたかのように尋ねてきた。一連の流れをいちいち説明する時間も意味もない。質問には答えず、命令だけを端的に伝えることにした。

「君の名前は坂下真由だな。父親が坂下俊哉。それで、今俺が持っているこのスマホは君のスマホ。合ってるか」

 真由は、怪訝そうに、はい、と答えた。

「いいか。今から君の父親である俊哉にこのスマホを使って電話しろ。繋がったら、赤川健次郎という人間を殺害することに協力しろと伝えるんだ。わかったな」

「はっ……?」眉根を寄せながら頓狂な声を出した。

「動揺するのはわかる。でもな、君はやるしかないんだ。君の父親が如月病院で赤川健次郎を殺害しないと、俺の息子がどうなるかわからないんだ。君だって無事じゃいられないだろう。だから、すぐに父親に電話して、赤川殺害を了承するように頼んでくれ」

 真由は呆けたまま、何も言わない。

 構わず、無理やりスマホを手に持たせる。

「おい、聞いてるのか。今は犯人の言うことを聞くしかない。わかるよな」

 少しずつ状況を理解し始めたのか、あ、とか、う、とかいう声を漏らしながら、忙しく視線をあちらこちらに漂わせている。

「気持ちの整理がつかないのも無理ないけど、やるしかないんだ。早く電話してくれ」

「そんなこと言われても、父に人殺しをお願いするなんて……」

「安心しろ。ターゲットの赤川という男は末期のALSなんだ。放っておいたってもうじき死ぬ。ALSってのは、治療のしようがない難病なんだよ」

「治療の、しようがない、病気」

「そうだ。だから、な? 頼むから電話して、赤川殺害に協力するように説得してくれ」

 真由は、下唇を噛み締めながらスマホを見つめ、ゴクリと生唾を飲みこんだ。まるで罪悪感を飲み下すように。だが、うまく飲み込めなかったようだ。

「その赤川っていう人、いくら治しようのない病気でも、まだ生きてるんですよね」

「そりゃ生きてるよ。だから殺せって言われてるんだ」

「じゃあ、結局殺人じゃないですか」

 面倒くさい。この期に及んで何を言っているんだこの女は。どういう状況か理解できていないのか。

「あのなぁ、俺たちは、死にかけの他人を心配してる余裕なんてないんだよ。犯人の指示に従うしかないんだ」

「だからって、殺人に協力するなんて無理です」

「お前っ……」

 女を殴りたくなったのは、紗羅との結婚生活の時以来だ。離婚直前の頃は頻繁に口答えするようになっていたから、週に一度は殴りたい衝動に駆られていた。DVだなんだと訴えられた時のリスクを考慮してなんとか堪えたが、暴力を振るってもなんのお咎めもない世の中だったなら、心行くまま殴りつけていただろう。

「とにかく、私にそんな電話はできません。自分が助かるために人を殺してくれだなんて頼めるわけがありません」

 真由の身勝手な言い分に対する怒りで、自分の体が小刻みに震え始めたのがわかる。

 感情の爆発を抑え込むため、一つ大きく息を吐いた後、持てる限りの親しみと優しさを声に込める。

「なあ、聞いてくれ。さっきから言ってるけど、俺は息子を人質に取られてるんだ。目に入れても痛くないほどかわいい息子がな。まだ四歳だ。君の言う通り、自分が助かるために人を殺してくれなんて依頼するのは本来許されないと思う。だけど、よく考えてほしい。難病を抱えた大人の男と、前途ある健康で元気な四歳の子供。天秤にかけたとしたら、どっちの命が重いと思う?」

「……命の重さは等しいと思います」

 発作的に、横っ面をひっぱたくために右掌を振り上げた。真由が、ひい、と言いながら身をかがめる。

「お前、いい加減にしろ!」ついに我慢できなくなり、怒鳴ってしまった。「そんな綺麗ごとに付き合ってる場合じゃないんだよ。――いいか、これが最後だ。痛い目に遭いたくなかったら、今すぐ父親に電話しろ」

 真由は両手で頭を抱えながら、できません、と絞り出すように言った。今にも泣き出しそうな声だった。

「殴るなら殴ったっていいです。それでも私、殺人依頼の電話なんて絶対にしませんから」

 俺の全身からすうっと力が抜けていき、両膝がかくんと折れ、その場にへたり込んでしまった。

 駄目だ。この女には損得勘定というものが欠落している。こんな奴を説得することなんてできない。何発か殴ったところで、おそらく考えは変えないだろう。

 腕時計へ目をやると、九時三十五分に迫ろうとしている。今日中、つまりは日付が変わるまでになんとかしなければならないのに。

「くそったれが」

 立ち上がりながら一旦真由からスマホを取り上げ、チノパンの左ポケットに突っ込んだ。それから右ポケットにある自分のスマホを取り出し、あの男に連絡する。

「もしもし、俺だ」

「早いじゃないですか。もう終わったんですか」

「聞いてくれ。坂下真由は、何があっても父親に電話しないと言ってる。この決意は本物っぽい。これ以上脅して電話させようとしても無駄だ。だから作戦を変更できないか? 例えば、如月病院の医者や看護師を買収――」

「やめてください」突き放すような早口だった。「交渉は無駄です。奈倉さん、あなたは出された指示を全うするしかないんです。指示通り、坂下俊哉に電話させてください。それで、今日中には赤川殺しの目途を立てるんです。そうしないと、栄斗君がどうなるかは保障できません」

「でもな、今も言った通り坂下真由を説得するのは無理なんだ。指示には従いたいけど、これ以上どうしたらいいのかわからないんだよ」

「大丈夫です。すんなり応じなかった時の対処法も考えてありますから」

 思わず安堵のため息が漏れ、頬が緩む。「そうだったのかよ。だったら早く言ってくれ。ヒヤヒヤしちまったよ。――で、どうすればいい?」

「坂下真由のスマホが置いてあったダンボールの中に、バリカンとカッターが入ってますから、それを持ってきてください」

「は?」

 不意に物騒な言葉が飛び出してきたことで、つい聞き返してしまった。

「聞こえましたよね。時間を無駄にせず、早く持ってきてください」

「ちょっと待て。バリカンとカッターって、一体何をするつもりなんだ」

 そう口にした後、慌てて真由の方へ目をやった。真由は、不安そうな目で俺を見ている。

「大体想像つきますよね。――まずは、バリカンで坂下真由を丸坊主にしてください」

「なんだと?」

 真由に会話を聞かれないように、ダンボールが積まれている場所からは対角となる部屋の隅へと移動した。

「正気か? 女の髪を全部切れってのか」

「それでも駄目なら、カッターを使って顔に傷をつけてください。ここまでやれば、坂下真由の心も折れるでしょう」

「さ、さすがにそれはやりすぎだろう」

「やりすぎ?」

「ああ。髪は女の命とか言うし。その上、女の顔を傷つけるだなんて――」

「あなたの価値観など聞いていません。やりたくなかろうが、息子を救いたいならやるしかないんです。甘えたことを言わないでください」

 そう言い捨てられ、なんの余白もなく電話を切られた。

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