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【競馬】日本ダービー馬コダマとソ連発祥のミチューリン農法の意外な関係

はじめに

コダマという競走馬をご存知だろうか?
1960年に皐月賞・日本ダービーに勝利しクラシック二冠となった馬であり、60年代の活躍馬としては三冠馬シンザンに次ぐ知名度がある馬だろう。

今回、別件を調べるために国立国会図書館デジタルコレクションで昔の競馬関係の資料を閲覧していたところ、コダマの生産牧場である北海道浦河町の「鎌田牧場」において、ソビエト連邦発祥の「ミチューリン農法」なるものが採用されていたという記事を複数発見することが出来た。

戦後日本の競馬とソビエトの科学という、一見関係なさそうな両者に意外な接点があった、というのが興味深かったので、ここに紹介してみたい。

ミチューリン農法とは

そもそもミチューリン農法というのは何か。

まず、ミチューリンというのは人名で、ソ連の「育種家」「園芸家」と紹介される人物。

ミチューリン農法については別名「ヤロビ農法」とも呼ばれるという。

『日本大百科全書 23』(相賀徹夫編著 小学館1988)〔031/ニホ/23〕318p「ヤロビ農法」の項に“一九五〇年代に、
長野県下伊那の農民を通じて日本全国に広まった農業技術に対する用語で、一名ミチューリン農業とよばれる。
(中略)作物を温度処理によってその成長を支配し、作物の性質を変える農法を意味し、秋播き性→春播き性、
あるいは晩熟性→早熟性という育種を目標とする場合と、低温処理による増収などをねらう栽培技術を目標としている。
わが国のヤロビ農法はむしろ増収を目的としてイネ、ムギの穀物以外にトマト、キュウリなどの野菜にまで及んだ。
しかしその成果が不明のまま一九七〇年(昭和四五)までには立ち消えとなった”とある。

昭和20~30年代に行われていた「ミチューリン農法」はどのような農法なのか
https://crd.ndl.go.jp/reference/detail?page=ref_view&id=1000025516

この農法、ルイセンコ論争で知られる、ソ連の生物学者ルイセンコがミチューリンの理論を発展させたものがバックボーンにあるらしく、現在からみると、いかがわしさがプンプンしている。(が、この記事では、この農法が科学的に正しいものかどうかについての判断は行わない。)

ロシアの育種家ミチューリンの研究とその後輩ルイセンコの発育段階説に基づいた農法および育種法。ミチューリン=ルイセンコ農法とも呼ばれる。ヤロビはヤロビザーツィヤ(春化処理)の略。催芽した作物が生育のために必要とする温度段階を人為的に変えて作物の遺伝的性質を変化させ,品質・収量を高めようとするもの。日本では昭和20年代から30年代初めにかけて宣伝され,一部の農家の人々によって信奉,実施された。

https://kotobank.jp/word/ヤロビ農法-144449

上記引用内での「一部の農家の人々によって信奉,実施された。」という書かれ方を見るに、日本国内ではあまり普及しなかったばかりか、採用した農家も奇異の目で見られていたのかもしれない。

また、最近では稲作をリアルに再現したことで話題になったビデオゲーム「天穂のサクナヒメ」のプレイヤーの間で、失敗農法として話題になったようだ。

サラブレッドの生産とミチューリン農法

ここからが本題で、コダマを生産した鎌田牧場とミチューリン農法の関係について記していきたい。

鎌田牧場について

コダマを生産した鎌田牧場の設立はかなり古く、明治40年、日本でのサラブレッド生産の黎明期から開業していたようだ。

浦河で、鎌田正嗣さんを訪問。近年ではトップコマンダーやショウナンタキオンが重賞で活躍。「元々は明治40年に鎌田牧場として開業したのですよ。コダマやヒデコトブキ等を輩出したのですが、色々とありまして、平成5年に私が新たに開業した形になりました。シラオキの牝系も残っていますから、ここから活躍馬を送り出したいですね」と鎌田正嗣さん。

檜川アナ・舩山アナの北海道牧場取材レポート
https://www.radionikkei.jp/keiba_article/jikkyoana/entry-145189.html

浦河の「鎌田家」の歴史を記した「大地とともに」では明治40年、鎌田九平氏がサラブレッド繁殖牝馬数頭を持って牧場を始めたとされており

日高と馬の関わり:サラブレッド生産に至るまで
https://blog.jra.jp/shiryoushitsu/2019/09/post-2ef3.html

鎌田牧場関係の馬で、現在でもその名を広く知られるのは、ウマ娘でも「シラオキ様」と神格化(?)されて名前が登場する、繁殖牝馬シラオキだろう。
鎌田牧場での供用時には、コダマとその1歳下のシンツバメという2頭のクラシック馬を輩出し、その牝系からはシスタートウショウ 、マチカネフクキタル、スペシャルウィーク、ウオッカといったクラシック馬が生まれている。先に引用した記事内に登場する鎌田正嗣氏は、この牝系から中山大障害勝ち馬のテイエムドラゴンを生産している。

1978年に刊行された「産経会社年鑑」には以下のような広告が掲載されている。

コダマ、シンツバメ、ダイコーター
ヒデコトブキ、ベルワイド など
クラシック馬の
ふるさと
有限
会社 鎌田牧場

会長 鎌田 正    鎌田 管仲
社長 鎌田正人 鎌田 雄策

繁殖部 (・・・)
育成部 (・・・)

『産経会社年鑑』,[産業経済新聞社年鑑局],1978.6. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11998392 (参照 2024-05-14)
※住所・電話番号部分を省略

ダイコーターは1965年の菊花賞馬、ヒデコトブキは1969年の桜花賞馬、ベルワイドは1972年の天皇賞春馬である。これら生産馬の実績を見ても、非常に優れた生産牧場であったことが分かる。

この牧場の長い歴史に関しては、後に触れる牧場主・鎌田管仲氏によって「大地とともに 鎌田家の百年」(1984年)という書籍が刊行されたようだが、少部数の自費出版物と思われ、所蔵する図書館や、在庫のあるネット古書店が見つからなかったため、今回は確認することが出来なかった。

サラブレッド生産におけるミチューリン農法

ここからは優れた実績を持っていた鎌田牧場における、ミチューリン農法の実際について、記していきたい。

それにあたって、国立国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、「日本ミチューリン会」という団体が発行していた「ミチューリン農業」という会誌を中心に参照していく。
同会やミチューリン農法自体の消長については、以下の書籍が刊行されているようだが、未読。

一般誌で鎌田牧場とミチューリン農法に触れている資料として「週刊新潮」の1960年6月13日号が見つかった。
同号の「スナップ」というコーナー中、「日本ダービーの優勝馬」との見出しで、口どり写真とともに次の文が掲載されている。

「コダマには飼育上の秘密があった。北海道鎌田牧場で育ったコダマは、最初からソ連で有名な耐寒性果樹育成の学説"ミチューリン法"が応用されて育てられた。この寒冷飼育法というのは、馬の新陳代謝を活発にする秘法で、牧場主の鎌田さんが苦心サンタン研究の末コダマに応用、ついに今日の名馬を育て上げたものだそうな。さしずめヨガの秘法の馬版か。」

新潮社 [編]『週刊新潮』5(23)(226),新潮社,1960-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3377097 (参照 2024-05-26)

鎌田牧場でミチューリン農法を採用していたことは、当時著名な週刊誌でも報道されていたことがうかがえる。「ヨガの秘法の馬版か」と書かれているあたり、科学的根拠のあるものとは見られていなかったのだろうか。

国会図書館デジタルコレクションで閲覧できる、「ミチューリン農業」誌
に鎌田牧場が登場する最古の例は、第210号(1959年1月11・21日合併号)である。
この号では「ダービーに勝つ馬は寒冷条件で育てられる」と、翌年のコダマのダービー制覇を予言するかのような見出しとともに、鎌田牧場の鎌田管仲氏のコメントが掲載されている。

サラブレット生産に対する私の考へと体験
北海道浦河町字上臼杵鎌田牧場 鎌田管仲
「中国農民の創造した増収の謎をとく」を読んで偉大な農業の想像を知ることができました。農業の基礎の上に立ってサラブレット(競走馬)を生産する私共は、そのブルジョア的考え方をかへてゆくために誠によい資料であったと思います。「サラブレットは人間が創造する最高の芸術である」という言葉で私たちは励んでおりますが、それだけに研究を要するわけです。北海道、ことに日高地方が日本に冠たる名馬の主産地となった理由は、ミチューリン農業を学んだものはすぐ分かることですが、すべての環境が非常にめぐまれていることです。(以下略)

『ミチューリン農業』(210),日本ミチューリン会,1959-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362225 (参照 2024-05-14)

このコメントから、鎌田管仲氏がただ単にに農法としてミチューリン農法を採用しただけでなく、そのバックボーンにある社会主義思想への理解があった人物であることがうかがえる。この点に関しては次節で触れる。

さて、競走馬の生産の過程で、特別な農法を使うときくと、畜産農業の素人の筆者には、馬が普段食べる飼料や放牧地に生える牧草の育生というものが思い浮かんだのだが、鎌田牧場では馬そのものの育成においてもミチューリンの学説を応用していたようである。
「ミチューリン農業」第245号(1960年5月1日)では「コダマ号にさつき賞の栄冠」「ミチューリン学説を競走馬の生産に応用した最初の成果」の見出しとともに、その育成手法がまとめられている。

(1)よい競走馬をつくるにはよい環境が必要で、放牧地、畜舎とも低温、通風、採光を充分与える。(2)馬の要求する適温は低温で、二月下旬~四月上旬に出産させ、幼児を寒冷条件で育てる。(3)母体のホルモン支配をよくするための飼育管理ホルモンを植物からとるため、牧草の生長点を多量にたべさせる…などである。

『ミチューリン農業』(245),日本ミチューリン会,1960-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362259 (参照 2024-05-14)

また、国会図書館デジタルコレクション内で発見できた、鎌田牧場とミチューリン農法の関係が記載された書籍では一番古い、「明日への農業と家畜」1955年5月号には鎌田牧場で撮影されたと思われる2頭の馬の写真に、以下のキャプションがつけられている。

北海道浦河町の鎌田牧場のサラブレツトの若駒
この牧場では、ミチューリン主義の研究が盛んで、子馬をなるべく二月頃に産ませるよう計画的に種付している。
いままで名馬になるのは二月頃出産したものを、零度を基準にした寒いうまやで飼育したものに限られていたという。

『明日への農業と家畜』2(5),文永堂,1955-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1720982 (参照 2024-05-14)

また同じ時期に刊行された「農業北海道」誌には、「ミチューリン運動の発展 第二回北海道大会を顧みて」という記事内に「日高の競走馬に関する寒冷飼育について、浦河町の鎌田氏から解説があった」とある。この件については別刷のパンフレットとして配布されたという。(『農業北海道』7(5),北海道新聞社,1955-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2312565 (参照 2024-05-26))

コダマは1957年4月17日生まれなので「二月下旬~四月上旬に出産させ、幼児を寒冷条件で育てる」という条件には当てはまっていないが、すでに鎌田牧場でミチューリン農法が取り入れられてから生産されたことが分かる。
この、馬を寒い状態で飼育するという考え方は、ミチューリン農法の「春化処理」(ヤロビザーチヤ、「ヤロブ農法」の由来)の考えを家畜に応用したものなのだろう。

植物の生長期に、低温の時期を与えることによって、花芽の形成を促進する方法。秋まき小麦の種子を低温にさらすと、春にまいても収穫ができる。バーナリゼーション。ヤロビザーチヤ。

https://kotobank.jp/word/春化処理-78535

5月29日の日本ダービー直後に刊行された「ミチューリン農業」第248号(1960年6月10日)では「ミチューリン学説で育てたコダマ 日本ダービーに晴れの優勝」との見出しとともに、鎌田正氏と鎌田管仲氏の連名で感謝のコメントが掲載されている。(『ミチューリン農業』(248),日本ミチューリン会,1960-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362262 (参照 2024-05-26))

「ミチューリン農業」第250号(1960年7月11日)には「コダマの勝利によせて」と題して、鎌田管仲氏による、以下の散文詩風の文章が掲載されている。
寺山修司はハイセイコーの引退に際して「さらばハイセイコー」という詩を発表したが、活躍馬の生産者が 、みずからの生産馬を題材にした詩を書いて発表したという例は、なかなか珍しいと思う。

第二七回の日本ダービーはミチューリン農業紙はいち早くコダマの優秀性を讃えて
他の新聞紙や週刊誌と見方をかえて
ミチューリンの理論の正しさから生まれたコダマを
科学的にとらえて広く宣伝してくれた
(中略)
コダマが世紀の名馬と謳われるのは
秋の菊花賞三○○○㍍を制覇して
三冠王となった時である
人間の想像した最高の美術と芸術
そのサラブレッド・コダマの生命の輝かしいことよ。
(一九六◯、日本ダービーを終えて)

『ミチューリン農業』(250),日本ミチューリン会,1960-07. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362264 (参照 2024-05-14)

「ミチューリン農業」第300号(1962年4月11号)では、巻頭に「名馬はミ主義から 高価なパンパスか 安価なクロレラか」という見出しで、鎌田管仲氏の署名記事が掲載されている。
パンパスというのは人工育草機のこと。鎌田氏は、自らの生産馬が出走した桜花賞を見に阪神競馬場へ行った帰りに東京に寄り、大井競馬場の大山末治調教師とともに馬事公苑内の研究所で、このパンパスの育草方法を見せてもらっている。
さて、ここで大山末治という、ハツシバオー、テツノカチドキといった地方競馬史上の名馬を手掛けた調教師の名前が登場する。

この人物とミチューリン農法には以下のような関係があった。

▼大山末治さんは現在、東京大井競馬場で大厩舎を管理されて調教師会の要職にあり、識見高く、殊にミチューリンの学説に共鳴され、昭和三二年から長野県霧ヶ峰の高原を選び牧場を経営されているが、早くもその第一回の作品である「タカマガハラ」号が昨秋一一月の東京競馬の天皇賞を獲得したのはまことに痛快事であった。
ミチューリン学説に随い、よき環境をつくり、ここで確信をもって、不世出の名馬を育成された。
(中略)
「タカマガハラ」号は一一月、日本代表馬として国際競馬に招待され、勇躍、アメリカのローレル競馬に出場することに内定したが、日本ミチューリン会の会員である大山さんの御成功を合わせて祈る次第である。

『ミチューリン農業』(300),日本ミチューリン会,1962-04. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362045 (参照 2024-05-14)

大山末治氏は大井競馬の調教師であり、中央競馬で天皇賞・秋を制覇したタカマガハラ号を生産した長野県の「霧ヶ峰牧場」の経営者でもあった。
そしてその牧場でもミチューリンの学説に従った環境が作られていたという。長野県は日本におけるミチューリン農法の発信地である。

ここで、鎌田牧場以外のサブレッドの生産牧場が「ミチューリン農業」に登場するわけだが、ここから6年遡って1956年刊行の「写真でみるヤロビ入門」という著書には、既に別の牧場の名前も挙がっている。

ダイナナホウシュウは、北海道の豊浦の飯原牧場の産だそうですが、飯原牧場はサラブレッドのそだてかたが今までのふつうのやりかたとちがっていて、話題になっています。(中略) 飯原さんと親交のある日高の浦河町の原田了介さん(獣医で馬の伝染性貧血症と戦っているミチューリン主義者)や鎌田管仲さん(鎌田牧場でミチューリン農法による馬の育てかたの研究者)からきいたところによると、一、母馬も父馬も馬そのものをよくえらぶが血統にはそれほど重きをおかない。二、育てかたに重きをおき、とくに幼少期の育てかたで、ふつうの牧場でよくやるように仔馬に寒いときキモノをきせたりせず、かえって冬でも雪の上で放牧したりしてきたえる(寒冷飼育)、という点に大きな特ちょうが指摘されています。

菊池謙一 著『写真でみるヤロビ入門 : 作物別のやり方と標本写真集』,理論社,1956. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2481972 (参照 2024-05-14)
(※引用内の太字は引用者による)

ダイナナホウシュウは1957年に皐月賞・菊花賞を勝ち、翌年には天皇賞・秋を勝利している。

つまり、「ミチューリン農業」第300号が刊行された1962年時点で、ミチューリン農法は、最低でも3頭のクラシック馬(ダイナナホウシュウ・コダマ・シンツバメ)、2頭の天皇賞馬(ダイナナホウシュウ・タカマガハラ)を生み出しているということになる。
前節に上げた鎌田牧場産のダイコーター・ヒデコトブキ・ベルワイドといった馬も同様の方法で育てられた可能性を考えると、その数はさらに増えることになる。マジかよ!!

「ミチューリン農業」第317号(1962年10月11日)では「ローレル国際競馬にタカマガハラ号が」という題の鎌田管仲氏の署名記事が掲載。(『ミチューリン農業』(317),日本ミチューリン会,1962-10. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362062 (参照 2024-05-26))

アメリカのローレル競馬場で開催されるワシントンDCインターナショナル競争にタカマガハラ号が日本の代表馬として送られること、前述した大山氏とミチューリン農法の関係、前年にコダマが招待されたが足の故障で不参加となったこと、が記されている。すなわちタカマガハラ号の挑戦には、ミチューリン農法で育てられた馬として、コダマのリベンジを果たす、という意味があった…のかもしれない。
ちなみに、タカマガハラの馬主平井太郎氏は、自民党所属の国会議員でもあった。

「ミチューリン農業」第401号(1966年2月・3月号)には鎌田管仲氏が北海道のミ(チューリン)大会で発表したという論文「競走馬の生産とミチューリン学説」が掲載されている。

とりとめもないことを書きましたが、私の言いたいことは、ミチューリンの法則から考えて(一)土壌に寒冷を与えること(二)牧草の種子も低温で発芽させること。(三)馬のよい環境を考えて低温で育てること。

『ミチューリン農業』(401),日本ミチューリン会,1966-03. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362142 (参照 2024-05-14)

「ミチューリン農業」第500号(1974年12月1日)には500号を記念したお祝いの文章の中に鎌田管仲氏の名前が登場する。(『ミチューリン農業』(500),日本ミチューリン会,1974-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362343 (参照 2024-05-26))

国立国会図書館デジタルコレクションで検索できた範囲ではこれが鎌田管仲氏の名前が「ミチューリン農業」に出た最後で、これ以降は「鎌田牧場」も含めて「ミチューリン農業」に取り上げられている例は見当たらなかった。


鎌田管仲と原田了介

つぎに、鎌田牧場の鎌田管仲氏と、一箇所引用内に登場した獣医師・原田了介氏について触れたい。
再度の引用となるが鎌田管仲氏は1959年の時点で

「中国農民の創造した増収の謎をとく」を読んで偉大な農業の想像を知ることができました。農業の基礎の上に立ってサラブレット(競走馬)を生産する私共は、そのブルジョア的考え方をかへてゆくために誠によい資料であったと思います。(以下略)

『ミチューリン農業』(210),日本ミチューリン会,1959-01. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362225 (参照 2024-05-14)

書いてあり、社会主義思想への理解があった人物と思われる。
軍国時代の1940年、すでに血統書中に生産者として名前が登場する鎌田管仲氏。(『馬匹血統登録書』第拾五卷,日本競馬会,昭和15. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/1869394 (参照 2024-05-26))

氏と社会主義との接近については、おそらく、前の節での引用内に「獣医で馬の伝染性貧血症と戦っているミチューリン主義者」として紹介されている原田了介氏が関係していると思われる。(このあたりの事情も「大地とともに」を読めば書いてあるのだろうか?)

浦河診療所と熱血獣医・原田了介氏
浦河は、北海道の民主的医療運動にとって特別な場所の1つです。敗戦翌年の1946年4月、浦河町臼杵に北海道で最初の民主的な農村診療所が農民の手で建設され、その志は2年後の1948年8月、日本共産党浦河診療所に引き継がれました。(中略)
浦河が北海道の民主的医療運動の源流という栄誉ある位置を占めるうえで、ひとりの獣医師が大きな役割を果たしました。
思想的リーダー
原田了介氏(1906年~1981年)
日本獣医学校在学中に科学的社会主義の洗礼を受け、様似、浦河で家畜診療所を営みながら友人の医師らと新しい社会について語り合い、戦後、浦河の思想的リーダーとして貧窮にあえぐ人々の生活と権利を守るたたかいの先頭に立ちました。(中略)
1947年、「皆で力を合わせて生活を守ろう」と生活協同組合の設立を呼びかけ、浦河生協の初代理事長に就任、臼杵診療所の設立や、友人加藤久太医師が始めた診療所の日本共産党診療所、勤医協診療所への発展に力を尽くし、1947年の第1回浦河町議選挙に立候補して当選、8期32年間にわたり、住民の生活向上と権利擁護に半生を捧げました。(中略)
天真爛漫、妥協知らぬ人
牧場主の鎌田正・管仲氏兄弟らとともに浦河の民主運動の支柱であり続けた原田了介氏。同氏の二男、克さん(72、獣医)は、北海道勤医協浦河社員支部の支部長を務めています。

北海道民医連の原風景
https://dominiren.gr.jp/about-us/genfuukei/

以上、長くなってしまったが、北海道民医連という団体のサイトからの引用である。この引用したテキスト自体は「【『浦河診療所創立30周年記念誌・明日の医療をめざして』、『ともに生きて 原田了介の生涯』、インタビューなどで構成しました】」とのこと。

これらの記述からもうかがえるように、終戦直後の時点で既に原田氏は日本共産党員であった。

馬の産地浦河で
戦前、「普通選挙法」にもとづく総選挙で四区木田茂晴の応援を様似町でおこなっていた獣医師がいた。様似町家畜診療所を開業していた原田了介であった。(中略)
原田了介は一九四〇年(昭和一五)には浦河町に移転して獣医師をつづけていたが、医師や親友などと戦争の本質や未来について話し合っていた。『大地とともに‐鎌田家の百年』は、その当時のことを「この悲惨な戦争が終局に近づきつつあることを確信していたようで、浦河日赤の加藤久太医師や花田医師、保健所の市原所長、時には鎌田管仲などの気のおけない人達と酒をくみ交わしながら、戦争の終わったあとの新しい社会の出現に花を咲かせていました」と書いている。 その新しい社会出現のスタートがきられた。終戦間もない一九四五年(昭和二〇)の暮、浦河町内の目抜き通りに「きたれ、浦河民主講座」という大きな模造紙のポスターが貼り出された。原田やそれにつづいて日本共産党に入党した日赤病院外科医長の加藤久太、浦河保健所長の市原喜雄医師らが準備したものであった。

このあゆみ星につなげ : 北海道勤医協の歴史
https://dl.ndl.go.jp/pid/12133095/1/66

「室蘭地方発達史 下巻」(1952年)には、1947年4月30日の第1回道議選に「共産党を名乗って獣医師の原田了介が出馬した」とある。
ちなみに、この道議選には、後に中央競馬の調教師としてニホンピローエース、テンポイントを手掛け、アイヌ民族の運動家としても活動した小川佐助氏が出馬し、3412票を獲得するも落選している。(谷村金次郎 著『室蘭地方発達史』下巻,室蘭民報社,昭和27. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3452403 (参照 2024-05-26))

北海道地方史研究 (77) (1979年6月)によると、1949年時点で、原田氏は「共産党日高地区委員長」というポジションである。(『北海道地方史研究』(77),北海道地方史研究会,1970-06. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2205263 (参照 2024-05-26))

その原田氏と鎌田家に関しては、以下のような関係があったようだ

西忠義が日高支庁長として赴任したとき、彼は、支庁長就任の挨拶で次のように述べた。
(中略)
そして、忠義は、鎌田九平、境忠助の協力を得て、日高実業協会を作って、港と種畜牧場の二つの事業に全力を打ち込む。(中略)
第二次世界大戦の敗戦後は、鎌田九平の息子の鎌田管仲と獣医、原田了助(久平は、若い時に父を亡くした了助の後見人になる)が、国と掛け合って、この種畜牧場の75%を開拓地、町営林、町営牧場として開放した。(以下略)

旭川大学地域研究所 編『地域研究所年報 = The annual report of the Regional Research Institute Asahikawa University』(13),旭川大学地域研究所,1990-08. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/7952885 (参照 2024-05-14)
※原田了助になっているのは原文ママ

引用内での種畜牧場というのは日高種畜牧場のことで、現在跡地はJRA日高育成牧場となっているようだ。

前節でも引用した「ミチューリン農業」第245号(1960年5月1日)では、鎌田氏とミチューリン学説の出会いが以下のように記されている。

鎌田さんは、浦河町で四十年来鎌田牧場を経営して競走馬の育成をしており、八年前、北海道公演旅行の菊池謙一氏より、初めてミチューリン学説をきいて、長年の経験から競走馬の生産はこれでなければ駄目だと考え、ミ学説を応用して優秀な競走馬の生産をめざして研究をしてこられた。

『ミチューリン農業』(245),日本ミチューリン会,1960-05. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2362259 (参照 2024-05-14)

菊池謙一氏というのは日本共産党の農村運動家である。また、前節で引用した『写真でみるヤロビ入門 : 作物別のやり方と標本写真集』の著者でもある。
ここまで何度も引用した「ミチューリン農業」は、日本ミチューリン会の会誌。

昭和13年、都新聞記者から世界経済調査会米国経済研究所に転じた。戦争で長野県に疎開。戦後、長野で共産党入党、農村運動に従事。ソ連の農法ヤロビザーチャを農民に広め、日本ミチューリン会創設に尽力。

https://kotobank.jp/word/菊池+謙一-1643177

これらの関係からも推測できるように、ミチューリン農法の競走馬生産への応用に熱心だった鎌田管仲氏もまた、日本共産党員であった。

「北海道年鑑 1970年版」(1969年)には浦河町会議員として原田氏、鎌田管仲氏の名前がある。「北海道年鑑 1971年版」(1971年)には原田氏の名前が消え、鎌田管仲氏の名前のみ町会議員として記載されている(所属政党名は記載なし)。
(『北海道年鑑』1970年版,北海道新聞社,1969. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/3002734 (参照 2024-05-26)、『北海道年鑑』1971年版,北海道新聞社,1970. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/9490543 (参照 2024-05-26))

「日共・民青 : 研究・調査・対策の手引」(1971年)という、大変香ばしい感じの書籍中に、日本共産党の国会・地方議会の党議員名簿があり、その中に鎌田管仲氏の名前があり、氏も 日本共産党員であったこと、昭和42年4月に256票で当選したこと、浦河町には氏の他に2名の共産党議員がいたこと、がわかる。(『日共・民青 : 研究・調査・対策の手引』,日本政治経済研究所,1971. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/11926504 (参照 2024-05-26))

このうちの1人、坂東甚氏は「前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌 12月臨時増刊(1991年12月)」に日高地区委員長の肩書で登場。馬産地ジョークを連発している。(『前衛 : 日本共産党中央委員会理論政治誌』12月臨時増刊(614),日本共産党中央委員会,日本共産党中央委員会出版局 ,1991-12. 国立国会図書館デジタルコレクション https://dl.ndl.go.jp/pid/2756047 (参照 2024-05-26))

おわりに

今回はダービー馬を輩出したサラブレッドの生産牧場とソビエト連邦発祥の農法の関係について、ネットのみの調査ではあるがまとめてみた。
最初はネットの調査だけでこの件についての関心は満たせるだろう、と思っていたが、調べれば調べるほど「大地とともに 鎌田家の百年」が欲しくなった。

日本競馬における馬主というのは基本的に、資本主義の世界において成功を収めた資本家であり、ダービー馬を持つということは資本家にお金以上の名誉をもたらすものであろう。
この記事内でも名前を挙げたダイナナホウシュウの馬主、炭鉱王の上田清次郎と鎌田牧場産のダイコーターをめぐる有名なエピソードはその一例だろう。

そんな日本競馬の頂点に立った、コダマという競走馬の生産過程において、社会主義イデオロギーの影響を色濃く受けた理論に基づく農法が応用されており、なおかつ生産者は日本共産党員であったという。
そして、"天皇"を冠する大レースを征した、ダイナナホウシュウ・タカマガハラも、同じ農法で育てられていたというのは、面白い事実だと思う。

更新履歴

2024/05/26 「週刊新潮」「農業北海道」の記事の内容を追加、国会図書館デジタルコレクションのリンクを修正

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