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混沌の現象学

混沌。例えば、先述の「作用」と「反作用」や「ペットボトルの各部分」は、本来は他方に対して無関係な関係性であるだろう。意識は、そうした混沌を推測できるのみで、直接的に知ることは出来ないが、意識は混沌より概念を定立する。意識は、その概念を通して、諸現象を結びつけて「合理的な法則」や「真なる対象」を把捉する。その概念には、時間と空間の概念、純粋な法則の概念、自由の概念などがある。

それら概念と質感は不可分な関係性にある。概念はそれについての感覚がなければ、その概念として把捉できないし、感覚はそれについての概念が無ければ、その感覚として把捉できないからだ。例えば、意識が「🔴」の質感を、すでに時間と空間の概念などを通して把捉していることと同様である。また、対象と概念の相互的な関係性も一つの対象として、純粋な法則の概念を通して把捉しているものとしてある。

さて、意識とは、一般的に「対象」と「概念」の相互的な運動に超越する理念的な意識、また理念的なものでもあり得る欲動である。この欲動が、概念と対象の運動を有限な運動として規定する。例えば、「渇き」は、飲料を価値ある対象として捉える。意識は、価値の概念を通して飲料を価値あるものとして把捉する。そうして、飲料を得て消費して喉の渇きを癒すならば、概念と対象の相互的運動の方が、欲動を満たしつつ消し去ってしまい欲動を規定する。欲動は、そのような意味では有限なものである。

では、様々な概念が登場するなかで、「諸概念の概念」としてあるものは何か。それは、様々な対象を観察することで考えうるだろう。それは、真や善の究明(『〈実体性〉補足』および各論)や、幸福追求の基礎(『「自由」と「幸福」の概念的比較』)に関わる、自由の概念(哲学)であるだろう。何故なら、そもそも、概念を通して対象を把捉するというのは、総じて混沌を秩序付ける、ということであるからだ。歪でカオスな状態に於いて、個々の同一性を調和させなければ、諸々の概念の定立に意義はない、というワケである。こうしたことを踏まえて、哲学とは法についての哲学(法哲学)である、と言い得るだろう。概念の規定する対象は、しかし、絶対的な対象ではない。それは、例えば、完璧に作成したつもりの自らの「作品」に粗や瑕疵が見えてくることと同様である。そうした捉えどころのない歪な混沌を調整する必要性を、また混沌をより小さくする必要性を、欲動は幾度も抱くのである。

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