ボトムアップに物事を語る

物事を説明するとき、トップダウンに物事を説明する人たちがいる。でも、ボトムアップの方がいいと僕はふと思っているそんなことを記事にしようかなと。

これは実際にツイッターに書いたこともであるが、noteのまとめておいて後から読み直してもいいなと思ったのでここに書いてみる。

たとえば、デザインをするとき、資料をつくるとき、なにか文章を書く時、必ず、伝えたい何かの、全体を探ったり、俯瞰したり、整理したり、まとめたりする。それは非常に大切なことだと思っている。

そのあと、それらをそのまま文字に起こしたり、図にしたりしている人たちやそういう資料をよく見る。その場合、「整理された構造化された」文章だったり、「きれいな、すっきりした」資料だったりする。それって伝わらいこともありえると思う。

なぜそういえるのかっていえば、それらは「抽象化」されたものをそのままぶつけているからだ。抽象化されたものは、基本的には漠然としたり、手でつかめなかったり、実感がわかなかったりすることが多い。

そのところで、「具体例」を話す人達が多いのだ。それらは、抽象化された物事の理解の補助でしかない。そして、抽象化されたものを上手く表現できたら満足となることが多い。具体例は意味を持たないことも多くある。話の主題ではないと。しかしながら、その具体例こそ、現実だったりすることがる。

抽象化されたことの理解はゴールではない。本質ではないのだ。伝えたいものは、抽象化されたことではない。本質というのはビンの中身ではない。伝えたいことというのは、構築していくもののように私は思っている。

構築といえば、都市を私はイメージしてしまう。都市はすでに構築されていて、汚いところがない。キレイに都市計画され区画整理した町は私はわくわくすることがない。それよりも、カオスが入り混じる整理されていない雑多な町が私は好きなんだ。人間というのは非決定的であるべきだと思っている。理想的でなく、迫力がある、そういった町が、本来のなにか本質がある気がするし、興味が沸くし、わくわくするのだ。

キレイな都市計画で場所と、キレイにデザインされた資料って、なにか似ている。その似ていることはなぜかとちょっと考えてみる。私がそこで気づいたこととしては、作り手がどちらもある意味、1人の思考なのだって。一方の側でしかない。そこに、相手の存在はどこにいるんだろう?住んでいる人たちはどこにいるんだろう?作られている過程や生活や、現場や、そういった、ものは思考の中にきえてなくなってしまっている。

つまり、それらは「すでに構築されたもの」なんだ。抽象化された物事ってのもそれらは最初から構築されている。そういうものは、分からないのだ。私のものにならないのだ。それらは、探索できないのだ。地図をつくることができなくなるのだ。地図というのは探索されてないとつくることができない。既に探索されたところに再び地図をつくるのは非常に難しい。

最近子どもたちに、プログラミングなどを教えているのだが、その時、私は一番最初に、子どもたちに知ってほしい物事などをまとめておく。先に調査をすすめる。資料を作ったりする。でもその、調査内容をそのまま報告することはない。子どもたちと一緒にまた探索にでるようなことをやっている。

ゴールは示しておく必要はある。ゴールがなければ安心しないから。けれども、自分から道案内をしたりすることはない。道案内をするときは、時間が惜しいときで、基本的には、子どもが一人でブリコラージュするような感じでやっている。

そうしていくうちに、そのような主体的な活動によって、私は子どもたちが多くを学び、発達していき成長していくものだと思っている。

つまり、私はボトムアップに物事を語るってのはそういうことを、みんなでやっていく必要があるような気がする。私は物語を語ったりシナリオを重要するのはそういう意味で重要なんだ。

物事を整理し俯瞰することは大事だ。けれども、それは始まりにすぎないし、本質でもなんでもない。私はだれかが主体性をもって、何かを探索し、その奥にあるものを構築していけたらいいと思っている。それらは、与えられたり、あらかじめ作られたものではない。それは作られるものではないのだ。

トップダウンに物事を語れるのは頭の中にすっきりとしたながめが見えるからだ。眺められている人たちだけで話すのであれば、トップダウンに話せるしその方がわかりやすい。けれども、そうじゃない場合、ボトムアップに語る必要があるのだ。つまりなにもない森の中を歩き回ることが必要になる。近くになにがあるかをまず把握して少しずつ範囲を大きくしていくはずだ。

作られたものは整っている。しかし、そうなるまでの、情報がなくなっているのだ。物事を語る人は、それを頭の中に持っている。けれども、それをもっていない人が持つには、作られたものを押し付けるだけじゃ意味がない。手繰り寄せなければならない。単純化されたものではなく、複雑なものから「読み解く」という行為によって、持たない人たちも一緒に持つようになって、同じものが持てるようになると思う。

だから、最初から複雑なものカオスなもの、雑多なものにしておくってのはあえて必要なのだ。その中で、自分たちで、近いものを寄せ集めてブリコラージュしていく必要があるように思える。そのようにしてはじめて、わかるようになるのではないだろうか。

自分たちが自分の言葉になって初めて、本質が取り扱える。誰かになにかを伝えるには、まずは、ボトムアップに語る必要があるのだ。注意した方がいいのは同じ道をたどるのではなく、その人が辿れるように、シナリオを作らなければならない。それは難しいときもあるが非常に面白いことであると思う。

久しぶりにまとまってないものを書く。

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