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ながら作業とトレードオフ

はやくはやく。心臓の音がいつもより体の中で響く。血液と一緒に音の波が全身に行き渡るような感覚。
今日は朝からサウナへ行った。水風呂をおえて椅子に座り、世界へ溶け込んできた。体はぽかぽか、思考はほかほか、サウナ「バフ」は偉大である。

同じタイミングで部屋を出たおじさんがいた。その人は体をふいて、ロッカーをあけ、自分で持ってきたバスタオルで体を拭いていた(施設内に貸し出しタオルがあるにも関わらず)。
そして上から下まで拭き終え次第、下から衣類を身につける。
その動作の一つ一つが丁寧?というか整っていて、ついつい見惚れてしまう自分がいた。
まるで推しアイドルの一挙手一投足がスローに見えるかのような瞬間だった。(推し活したことないけど)

あたかも、そうすることが決められていたかのような迷いのない動き。
それが動きに無駄がないように感じさせたのだろうか。とにかくかっこよかったのだ。
サウナ上がりのフラットで静かな思考の池に一石が投じられた。
見惚れる所作、美しい所作はどうして美しいのか。

ふだん生活をしていると「ながら」で生きていることが多いことに気づく。
歩きながら・音楽を聴く
ご飯を食べながら・動画を見る
作業をしながら・ラジオを聴く
掃除をしながら・ラジオを聴く
シャワーに入りながら・音楽を流す
本を読みながら・音楽を流す
(あれ、音楽流しすぎじゃね。BGMにしてしまっている…?)

『何かしらのインプットをしていたい』
という想いから同時に何かをしている。そうすると一つ一つの動作に想いを馳せる分の脳内メモリが、ながらのインプットに置き換わる。それは決していけないことではないかもしれないけれど、それは同時に、一つの動作を考えるという時間とトレードオフされていた。
何かを得ることは、同時に何かを失っている場合があるようだ。

とはいえ、1日24時間という絶対制約の中で多くのものを効率よく得ようとすると、同時並行で何かを行う。という発想になるのは仕方がないように思う。
同時に何かをすると、たくさん得られる。ただし、一つ一つの精度は少し落ちる。
全部が上質なインプットになったらと思うけれど、そんなに上手くいかないんだろう人生は。だから面白いのかもしれない。

あのカッコいいサウナおじを思い出す。きっとながら作業はせずに「これがかっこいい」を追求してきたに違いない。

そんな仮説を実証するため、まずは歯磨きから向き合ってみようかな。

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