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自分だけでは自分のことはわかんないんだから 助けてー!ドラエもーん!!!って叫んでみる 2024/03/16

わたしは、自分ひとりじゃなんにもできないのに、自分ひとりでどうにかしようとしてしまう。自分ひとりじゃ自分のことすらまっすぐ見ることができないのに、自分から見た自分のことを自分だと思い込んでしまう。どうにかして素敵な自分になりたくて、そんな自分に憧れて、そうじゃない自分のことは徹底的に否定してしまう。それがわたしだ。偏りだらけの偏屈の曲がりくねったスネofすねたまご、それがわたしの正体だ。ほっといたらどんどん傾いて、傾き過ぎてひっくり返って転げ落ちてしまう。

だからこそ、人一倍知識を得ようと思った。人一倍では足りない。人百倍くらい知識を得ようと思った(あくまでもイメージで捉えてください)。常識が無さすぎる。ちゃんと世間を知らないといけない。常識なんてものは邪魔でしかないと思う自分はきっと自分の中に居ただろうと今ならわかるが、幼少期のわたしにとっては「常識」の中で「普通」あるいは「普通の普通以上に」なることが世界の全てだった。固く結んだ幼児決断が、そうしないと自分がここに居ては行けないと思い込んでいたし、愛されるためには必須であると決めていたため、喜んで自分を差し出しては居場所を得たり愛を得たりしていた。本当はそんなことは何もしなくても、ただ自分で居さえすれば居場所は与えられていることにも愛を注がれていることにも気付けたはずなのだが、欲張りなわたしの魂はそれを自分に与えるのを後回しにするばかりか、後回し+自分がそれを自分に与えることをとおして世界からの無償の愛に気付くという課題にしていた。なかなかのスパルタである。こういうことを課題にするためには、わたし自身は拗ねやすくないといけない(苦笑) 拗ねるのは素直だからだ。必要以上に素直すぎるから、思い込みや後天的に獲得した信念みたいなものが、自分のことをあーでもないこーでもないと整合性を求め持てる全ての(或いは限りなく最大公約数の)ルールや理論や法則や学びをの隙間を縫うことでやっとoutputを許されるわたしを、全力でバレないようにカムフラージュして外に出しているのだ。ここに書いたことの意味、伝わりますでしょうか。1回ですんなりわかったあなた、おめでとうございます。わたしと同じまたはそれ以上のスネレベルです!笑

冗談はさておき(いやむしろ本気でした、失礼しました)、つまり、ギリギリのところでゆるされる自分を精一杯整えて取り繕って「これなら合格でしょうか(ぜぇぜぇ)」といった感じで外に出しているのに、超絶涼しげな何食わぬ顔をして「ごきげんよう♡」と言っているのがデフォルトだということ。書いてみたらとてつもなく大変なことをしているいたことがよく分かったので、一旦自分を労っておきたい。

人生を賭して自分ひとりで生きられる自分、他者に介入されなくても世界を見ることができる自分、誰かに愛されなくてもそもそも愛されることに執着しない自分、1人で満ちている自分を育ててきたつもりだった。それは確かにある意味では為し得たのかもしれない。だからこそ、わたしは気付いてしまったのだ。わたしはひとりではないし、ひとりで生きてきたのでもないし、なんなら自分のことなんて何も分かってないこと、他者がいて初めて自分がみえるという事実に。

「ひとりじゃわからないよ」「わたしにはこうしか思えない」「こんなの自分じゃない」「こんなわたしは嫌だ」って思う自分がいても、そんなこと思う自分が恥ずかしくて、至らない自分だから、弱い自分だから、まだまだ学びが足りないからそう思うんだ、そんな視点しか得られないんだ、いつまでも自分のことを愛せないゆるせないんだと、自分を責めたりした。人のせいに出来なくて、でも人のせいにしたくて、そんな自分に罪悪感を感じて、さらに責めたりした。そうやって自分を追い込むことで、なんとか光が見えることがあった。それは、自分がダメな人間であること、弱いということ、強がりということ、愛されたいと思っていること、役に立ちたいと思っていること、自分でありたいと思っていること、ただ、素直にそう思ってしまう自分を認めることだった。それを、光を見るというのなら、ひとりで見ることができるひかりはあらかた見尽くしてしまったのかもしれない。

誰かの視点を通して渡していただけるわたしという人間は、わたしの思うわたし像を良くも悪くも遥かに超えていることが多い。ときには、自分が大切にしていることだけど、誰にも言ってこなかったことを伝えていただけることもある(そう、わたしはめちゃくちゃ秘密主義なのです。たぶんバレてますよね?)。だから、わたしはのび太のびたまごなのかもしれない。ひとりでは何もできないって思い知っているからこそ、その惨めさを知っているからこそ、誰かに助けてもらえる喜びをたくさん受け取れるのかもしれない。惨めさは勇気に変えればいいだけ。その惨めさを、真ん中に置くことでしか得られない価値が確かにあって、それはわたしを想像以上にわたしにすることを、今のわたしは知っている。

それは、ひとりでは越えられなかった壁で、「わからない」「助けて」と言えなければもらえなかったギフト。だとすれば、そのギフトをわたしにわたしたのはわたしで(なぜなら「助けて」と言ったのはわたしだから)、助けてもらって超えてもいい(価値は変わらない、むしろ上がるかも)という許しを与えたのもわたしだからだ。でもそれはいつも、終わってからわかることなのだ。計算してすることじゃなくて、飾らない自分としてそこにいることができたときだけ、ふわりと返ってくる贈り物なのだ。

だから、わたしは自分の惨めさを真ん中において、そのままでいることを選び続ける。その惨めさは、わたしがひとりである証拠で、誰かに助けてもらっていいという証拠。欠けてる点は欠かせない点。わたしひとりで考えてたら欠けているだけのその点は、ひとりでは自分になれないわたしをわたしにしてくれる世界との接続点だ。きっと、わたしが素直なのび太である限り、この世界は優しいドラえもんで溢れている。本当は、ひとりでは立つことすら怖いのかもしれないわたしが、今ここで生きて立っていられるのは、これまで関わってくれた全てのドラえもんが居てくれたおかげなんだと、心からそう思った。そう思えた自分のことを、嬉しいと思った。



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