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感覚に素直に 2024/04/09 -2

感覚に素直にあること。それが全てのはじまりであり、プロセスであり、辿り着くところであり、繋がるところであり、結びであり、導きであり、生み出しであり、需要であり、終わりでもある。全てのことは繋がりあって関わりあって響きあって、どんなときも(わたしたちがそれに気付いていてもいなくても)常に宇宙はfull orchestraだ。

今日は、神戸にある金鳥山という山に登ってきた。これまで、何となくで山を登ってきたけど、これまで登った山の中で1番、「わたしは山に登りました!」と言い切れる体験になったと思う。これで他の山にも登れるようになる…かもしれない(とりあえず次登るまでにもう少しいい靴がいることは確か)。

どういう山なのか、何があるのか、などはそれぞれお調べいただくとして(きっとその方が面白いです)、今日という日にこの場所へ行ったことの意味を、わたしは今かみ締めている。

今必要なことがぎゅっと凝縮した日で、色んなわたしが順番に見え隠れした日で、それを自分で観察してわかったりわからなかったりしたのを、友人に話して自分のことがわかったり、気付いたり、より深くわかったりした。わたしという人間は、単純さと複雑さと、バランスとアンバランスと、無邪気さと社交性と、子どもと大人と、感覚と思考と、見える世界と見えない世界と、あるとなしと、内弁慶と外弁慶と、みたいな感じで、本当にたくさんの面があり、それが常に入れ替わっているのだ。・・・しかもきっと自分の自覚以上、そして想像以上に。

こんなにたくさんの自分を目の当たりにしたのは久しぶりで、そのことになかなか気付かず地味にテンションが下がってるときがあったり、単純にエネルギー酔いをしていたり、自分の感覚が掴みきれなかったり、体感覚がぶっ飛んでいて身体のバランスが整わなくなってたり、最近あまり感じてなかったことを感じたりしたことで、今の自分を深く理解することができたりした。これは、1人ではなく7人だったからで、普段通りではなく違うことを意図したからで、今ここにいる自分の感覚に素直に挑戦したからだった。

どんなときも、感覚に素直に。自分で自分がわからないときも、ただそこにいる自分を解る感じようとする努力を怠らないこと。それは、わたしをそこに置き去りにしないことで(つまりかつてのわたしだったら置き去りにしたかもしれない自分にとって好ましくないわたしのままで)今ここにいる自分と一緒に居られたし、自分でもわからない自分をそのまま友人に話せる自分がいた。かつては、自分でわかってない自分をそのまま人に話すなんて禁忌タブー中の禁忌タブーで、有り得ないことだったのに、わたしは気付かないうちにこんなにもゆるんでいた、ゆるめていた。それは、わたしの中に安心感が積み重なっているということで、自分にとって心地よいを選ぶのがいつの間にか自分にとっての当たり前になっているからだと思った。

自分の枠の外に出てみることでしかわからないことがある。でもその枠は、いつもの自分のままで超えることは難しい。いつも、というのは既に最適化されているため、枠があってもそれを感じにくいからだ。意図/意識せず普段の自分がいる場所(いわゆる無意識のコンフォートゾーン)から出てみたときに初めて、自分の中にその枠/思い込みがあったことに気付いたりする。今日、わたしはまさにそのことを体験体感していて、そのことも実は一緒に行った友人から指摘してもらって気付いたのだった。他者視点の大切さと、それをそのまま伝えてもらえるよろこび。そしてそれに気付いて、受け取れる自分。全部が嬉しかった。ありがとう。

今日はたくさんの《音》や振動や空気や流れや自然に触れた。またきっと全てのタイミングがハマったときに、そのときに必要なメンバーとわたしは金鳥山に登るのだと思う。遠いようできっと近いその日を密かに楽しみにしながら、今ここにいるわたしをしっかり感じて味わっていきたい。

kakkyをはじめ、本日ご一緒してくださったみなさま。
本当にありがとうございました!



2024/04/09 -2 (99/366)

枠から出ないと枠に気づかないみたいなことも話しているスタエフはこちら。

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