誰かと同じ自分であれば大丈夫という偽りの安心感
のびたまごです。
昨日はあんなに調子よかったのに、今日は調子良くないです。
ま、こんなもんかなあ。
自分との心地よい付き合い方は、ぼちぼち見つけていくというか、観察して、やってみて、結果見て調整して、また観察して、を少しづつ繰り返して見つけていくものなんですかねー。
せっかく、【うつ】という贈り物をいただいたんだから、この時間はそんなふうに過ごしていこう。
さて、今日はこちらのamebloの投稿からインスパイアされていろいろ湧いてきたのでそれを言語化してみようと思います。
AFCでお世話になったユカコさんのブログ。
以下、一部引用☟
わたしの今までの失敗パターン、
「誰かを必要以上に上に置きすぎる&そういう集団に属しているとトラブルが起きる、病む」
というのがあって、
またそこにハマりかけていて、あかんあかん、となった。
もう3回目かも。情けない。
もう繰り返さない。
おかしい人もいるけど、素敵な人もいる。
群れたらおかしくなるのはなんでなんやろ。
わたしもそうなんです(というかだから今こうなってる)。
そして、もう繰り返さない。絶対。
心理的安全性
【心理的安全性】とは☟
「心理的安全性」とは、他者からの反応に怯えたり、羞恥心を感じたりすることなく、自然体の自分をさらけ出すことができる状態を意味する。 2015年に米グーグル社が、「心理的安全性は成功するチームの構築に最も重要なものである」と発表したことで注目を集め、以降は心理的安全性に多くの企業が関心を寄せている。
こちらのページから拝借しました(検索したら1番に出たので)
わたしも医療従事者なので、「チーム医療」ということびがあるように、【チームシップ】については個人的にも職場的にも色々学んだり、体験してきました。
で、去年参加したセミナーで使われていたこの【心理的安全性】という言葉がものすごく心に残っていて。
「ああ、これが保証されているっていいなあ」と素直に思ったのをよく覚えています。
集団が、ある一定のエネルギーに飲み込まれる瞬間っていうのがあると思うんです。
それは、永続的なものであることもあるし、一時的なものであることもある。
リーダー的な人が変わることもあるし、変わらないこともある。
でも、そこで、常にこの【心理的安全性】が保証されていれば、きっと色んなことが上手く回って、人間関係も、仕事の流れも、色んなことがよくなる。
逆に、保証されていないと、無意識のうちに人はそれを求める。
それが、自分の中で言語化されてなくても、顕在意識に登ってきてなくても、自覚がなくても。
で、居心地の悪い集団の中では(タイトルにしたんですが)、【誰かと同じ自分であれば大丈夫という偽りの安心感】という名前の心理的安全性が生まれるのかなー、と。
※ 単なる同調圧力的なものかもしれないんですが、ここではあえてこういうふうに捉えてみました。
そもそも、自分の安心の軸を他人とか周囲、世間、社会に置いてるからこうなるのかなと…
もちろんわたしも含めて。
誰かと同じ幸せはほんとうに幸せか?
戦争を知らないわたしが語るに相応しくないことはわかった上であえて言いますが、戦後、生活を立て直すことをされてきた方々がいらして、高度経済成長期がきて、家電が一般家庭に普及して、一流大学卒業からの優良企業就職、終身雇用…
でも、これはこれはたぶん土の時代の性質なんですよね。
「誰かと同じ」「より上を」が求められた時代。
でも、その気持ちが活力を生み出し、生きる力となった。
今は、ほとんど全てのものが全ての家にあって(ない家があることは重々わかってますが話の流れ上こういう表現をしてます)、欲しいと思えばお店に行かなくても買えたり、会わなくても話が出来たりする。
みんなが物質的に豊かになって、おなじになって、だから、先達の皆さんの描いた理想の未来はやってきてるんですよね。
でも、モノが飽和している今の時代が当たり前のわたしたちにとって、その夢はもう夢ではないんですよ(本当にごめんなさい)。
モノは満ちた。
では、心は?
そこに、これからもう一度、スポットライトが当たっていく。【つながり】の在り方、個人の在り方が見直されていく。それが、もしかしたら、2020年12月22日から始まった風の時代なのかもしれない、そう思います。
栄枯盛衰。
全てはめぐり、移り変わる。
でも、今を生きるわたしたちの目の前には、今あるすべてがある。
【心理的安全性】という言葉が当たり前になって、夫婦別姓や同性婚も当たり前になって。
というか、そもそも人って全員違う、が当たり前になって。
そんな世界、すごいなあ。
話がズレまくった気がしますが、終わりです。
読んでくださりありがとうございました!
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