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#01-03 「素の自分」 もしくは 「自分にかえる」

こんばんは。
のびたまごです。

1月11日からはじめた、あゆみさんとの往復書簡。
投稿自体は2回目だけど、バトンを受けて書くのは初回なので、なんだか不思議な初めての気持ち。

うん、これがしたかったんだ、わたしは☺️

いきなり余談ですが、昨日りゅうちぇるもこんなふうに言ってたし、なるべく気持ちは言葉にしたいなと思っているので書いてみました。


ということで、ここから本題です。

こちらのあゆみさんのnote、こんなふうに締めくくってありました。

次のテーマは「素の自分」もしくは、「自分にかえる」です。よろしくお願い致します( ̄^ ̄)ゞ

これを見た瞬間(つまりこちらのnoteがupされたとき)、これならすぐ書ける!と思った…のに、気がついたら早1週間が過ぎようとしていて、実はわたしにとってとても大切なことをベストなタイミングでテーマにしてくれたんだな、と思いました。

なぜなら、わたしは今ものすごーーーーーーく迷っているからです。
何に迷っているか。
それは、「自分を使う」ということについて。

それが、「素の自分」または「自分にかえる」というテーマを紡ごうとしたとき(つまりここんとこの数日間)、目の前に立ちはだかっ(てきてくれ)たのです。どーんと。

なので、避けずには通れないというか、きっとこのことを書く必要が今ある、という事なので、果たして上手くまとまるか謎なまま、今これが書きたいからこれを書く、というスタンスで始めていこうと思います。


子どものときの記憶

昨日、ふと思い出したことがあって。
わたし、子どもの時に人から「使われる」のが嫌だったんですね。思い出したのはこれだけだったけど、今これを書いていたら、どんどん思い出してきました(主に感情)。

子どものころ、父親が母親に「子どもを使え」と言っていたのがものすごく記憶に残っていて、その言葉が嫌いすぎて、ずっとお腹の中に怒りが溜まってるんだと思うんですよね。それは、自分が人間扱いされてない気がするからです。「使う」のは道具でしょ、人は「使う」ものじゃない。人を使うというのは、『アンクルトムの小屋』(幼少期に読んでショックを受けた本です)に出てくるような、インドのカースト制度に出てくるような、奴隷に対しての言葉だ、わたしは奴隷じゃない、だからわたしはあなたに「使う」と言われたくない。わたしは人間だ!…って、その言葉を親の口から聞く度に思っていた。

で、ちょっと思い出しただけでこれだけ恨みつらみ(笑)が出てくるくらい、「使う」「使われる」っていう言葉が嫌いだったんです(…今もかな^^;)。

ちなみに、この感覚を思い出すためのヒントを、数日前にまさにあゆみさんからもらっていました。

わたしがコメントしたこの感覚の根底にあったのが、今からここに書く「自分の存在の証明」のようなことだったんだと思います。
※ 復讐とかの観点は今回はぶきます。ちょっと話がズレてしまうので。

人間扱いされたいし、対等に扱って欲しいという気持ちがずっとあった。先に生まれたから、大人だから、何が偉いんだと思っていた。なぜこの人の許可を得ないと自分はしたいことが出来ないんだろうと理不尽に感じていた。学校では褒められるのに、友達のお父さんお母さんもわたしのことは褒めてくれるのに、どうしてわたしの両親はわたしを褒めないんだろうと思っていた。わたしは中学くらいまでは割と優等生だったので、勉強で分からないと思ったことはなかったし、塾にも行ったことはなく、全部自分で勉強した。勉強しているという意識がなかったという方が正しい。ただ、知識欲を満たしていたという方が正しい表現なのかもしれない。いくら吸っても満たされない知恵の泉みたいなものが自分の中にあって、ひたすらそれを満たしたかったのかもしれない。だから、実は興味のない勉強はしたくなかったし、意味が無いとも感じていた。だから、単に覚えるだけの勉強はつまらなく、仕組みや世界観を自分の中に構築するようにしていた(ちなみに、日本史の教科書は日本史が大好きなだけに構成がナンセンスだと感じていた笑)。


魂はここにある と 自分にかえる

とまあここまで書いてきて(ピンとくる方はもしかしたらお分かりかもしれませんが)、わたしは奴隷もしくはそれに準じた状態の過去世があると言われたことがあるのを、またこのタイミングで思い出しました。
これは自分では感覚として感じたことがあるくらい(そういう気持ちを感じたことはあるんです。あの時の自分の涙や絶望的な気持ちはこの魂の記憶があったからか…というか。他にもいろいろありますけどここでは割愛します)。

学びたい欲も、何かを成したい欲も、外に出たい欲も、自分を見てほしい欲も、全部全部、自分の中にあるもの。で、時に自分を奮い立たせたり、怒らせたり、泣かせたり、絶望させたりする。もちろん、それは今も過去も(きっと過去世とかでも)変わらず、ここに流れているものとして存在しているのだと思う。

この話の何が「素の自分」もしくは「自分にかえる」に繋がるのか?と思われるかもしれないし、実際わたしも一瞬「何の話を書いてるんやっけ?」とぼーっとなっていたのだけど、ここを見ずして「素の自分」も「自分にかえる」もないような気がします。

かえる先のわたしとは、まわりまわってここにいるわたしに他ならないから。それは、この自分でいいということではなくて、今はまだ「で」の自分かもしれないけど、ここに既に「が」の自分や、さらにその上の所有格のない自分が、共に存在していると思うからです。

何度も何度も、「自分にかえる」。
それは、気付くこと、思い出すこと、知ること、感じること、味わうこと、考えること、馳せること、望むこと、動くこと、渇望すること、認めること、喜ぶこと、信じること、誓うこと、決めること、行動すること、いまここにいること。

どれかの自分が素で、どれかの自分は素じゃない、という考え方ももちろんあるし、わたし自身もそう思う。今ここにいる自分は、本当の意味での「素の自分」ではなく、またまだ「化けの皮」をかぶっているともいえる。でも、今ここにいるわたしは、紛れもないこのわたしだ。「化けの皮」をかぶっているわたしが、「素の自分」なのだ。

だから、「化けの皮」を剥がそうと思えるし、剥がしたいとも思えるし、まだ被っていたいとも思えるし、ずっと被ったままでいたい、とも思う。

つまり、それはわたしの心のあり方が、まだ隠れていたいということ。それがわかった、ということ。そして、それがわかって、さあ、どうする?ということ。

ここで「自分にかえる」をもう一度考えてみたいと思います。


自分にかえる

自分にかえるとは、魂の自分というふうに置き換えてもいいと思うし、自分の命を使うこと、まさに使っている状態のことだと思う。

ここで、「使う」が出てくるんですよね。
「使命」とは、自分の命の使い方、つまり魂の自分の望みを知り、それを叶えること。

これは、どの視点からこの言葉を見るかで捉え方が変わってくるので、「素の自分」と「自分にかえる」はイコールの意味のときもある(し、あゆみさんはきっと同じことを言葉を言い替えてテーマにしてくれたんだと思っている。違ってたらごめん!)。
ただ、今回、何も決めずに書き進めてきて、わたしは今回「素の自分」と「自分にかえる」を、イコールじゃない捉え方で話しているんだな、と気付いた。

普段は同じ扱いにしていたと思ったけど、実は違うと思っていたのかもしれず!この話の展開は、自分で書いているにも関わらず、自分に対してとても興味が湧いた。


使命とは

わたしは、ずっと使命が知りたくて、使命を探して探して探して、探し疲れたタイプの人間なんですね。

勉強したり本を読んだり、講座に行ったりセミナーに行ったり、色々して、自分とも散々向き合って、どんどんどんどん自分に近付いていって、でも見つからなくて探し尽くしたとき、つまりもう見つからないと愕然としたときなのですが、でもそのときって実は、自分の中で「これ」という感覚の確信が生まれはじめているとき(このとき、「これ」が使命に繋がる感覚だとは分かってないです)だったんですよね。

で、気がついたら、自分の中の感覚に従って仕事を辞めていて(あまりに無鉄砲な辞め方をしたのであのときのわたしすごいと今でも思う感じですね)、導かれるがままに海外に行って、いわゆる不思議体験みたいなものを体験して、そこから、色んなことが、色んなところで、色んな形やタイミングで繋がっていて、今に至っています。

まだまだ、今も発展途上。
ても、今は今で大成しているともいえて、この相反するものが自分の中に同じ価値として存在しているのだと思う。
それが、「素の自分」と「自分にかえる」が、違うけど同じ、というのと同じことかなと思っています。

それは、さっき書いた、

かえる先のわたしとは、まわりまわってここにいるわたしに他ならないから。それは、この自分でいいということではなくて、今はまだ「で」の自分かもしれないけど、ここに既に「が」の自分や、さらにその上の所有格のない自分が、共に存在していると思うからです。

と全く同じ意味です。

探さなくてもここにある。
それは、「化けの皮」の中かもしれないし、目を背けているのかもしれないし、見えすぎて分からないのかもしれないし、浸透しすぎて分けられないのかもしれないけど、ここにあるんです。ない人はいない。だって、ここに存在しているんですから。それが既に、自分の命を使っているということ。それは、「使命」を生きているということだから。


過去記事を振り返る

ここで、自分が過去に書いたnote(過去に書いたけどリアルで大切にしている信念みたいなものを書いたnote)を振り返ろうと思います。
水星・金星逆行中、立春前、そして全天体順行期間前のこのタイミングで振り返ることにものすごく意味を感じますし、よければみなさんも読んでいただきたいのでm(_ _)m

自分である、ということは如何に透明であるかということなんだなぁと。

それはどういうふうな状態であるかというと、真の自分と比べて嘘がない、ズレがないってことなんだと思うんですよね。

あと、こちらも♩( ´ー`* )♩
過去に書いてるけど、今のわたしの中にも確実に息づいている確かな部分です。

手前味噌ですがほんといいこと書いてる。
自分の記録を見返すことは自分を助けることだなぁと改めて思いました。

わたしは割と過去は過去で、引きずる割に過剰に割り切るところもありアンバランスやなと自分でも思っていたけど、この辺も少し見直していきたいところだなぁと改めて感じました。


まとめ。改めて「自分を使う」とは

改めてまとめようと思ったのですが、もう別にこれはなくてもいいかなと思いました笑

まとめが無いとか斬新w
でも、そういうのを狙っている訳ではなくて。

単に、もう言いたいことは言い切ったかなと思うからです。
あとは、読んでくださった方が感じてくださったこと、受け取ってくださったことが全てかなと。

読んでいただき、ありがとうございました。


余談:サムネイルからのインスパイア

ちなみに、最後に少しだけ余談を。
サムネイルの画像を設定している時に、なぜかふと「シン・エヴァンゲリオン劇場版:||」の、シンジが滞在する廃屋(表現がイマイチですが)に似てるなと思いました。
彼にとってあの場所は、「素の自分」と「自分にかえる」が一緒にある場所であり、分岐点であり、通過点であったのかなと思いました。

それはつまり、わたしにとってそういうことだということですし、わたしにとってそういう場所だったということです(ここに書いたことが、そういうことだったということ)。

魂のルフランが流れてきそうですね😌


ということで、予断を挟みましたが、次のテーマは「分岐点」です。
よろしくお願いいたします♩( ´ー`* )♩


2021/01/27
のびたまご🥚🚩✨

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