見出し画像

『引き出しにしまう』:東南アジア旅行記 3日目(11/24)③

ワット・ローカヤースッター(写真参照)

画像1

を後にする前に、友人がタイパンツを新調。少し割高だった模様です。

画像2

こんなに破けてたのか…。お会いした日本人親子(とくに娘さん)に悪影響だったんじゃなかろうか…。

そのあとは、そこらへんに建ってるピラミッド(??)に登ったりしながら、エレファントキャンプへ。

画像3

画像4

こんなのがぼんぼこある。

画像5

結構な高さです。

画像9

構成パーツ。(読めない)

画像9

そして象さん!!
チケットを買って、列に並びます。

画像7

象使いは「KLUAYMAI」さん(読めない)。
象には2人まで?乗れるようで。
友人が端に座りすぎるのか、しばしば後ろを振り返って、ちょいちょい(中に寄ってください)と。

画像8

象は前後に揺れます
あとは結構高い。
自転車は見下ろせるし、車の上も見えます。

観光象なので慣れたものですね。
暑かったら途中で水を浴びたりしてました。可愛い。
あとは象使い同士ですれ違い様にお話ししたりしていて。
この緩さがたまらんなあ。

エレファントキャンプに戻ると、そこにはWi-Fiが通じていたので、帰りの電車を調べる。と、ぼちぼち良い時間みたいで。

名残惜しいながらも、ゆっくりと自転車で戻り、また船に乗って川を渡ることに。

すると、

帰り道、何人?かに「英語は出来ますか?」(Can you speak English ?)と聞かれ、
「少し」と答えて、しどろもどろに伝えた、
時間ギリギリの中で、同じバンコク行きの電車に乗ろうとしていた。
コミュニケーションは言語とかじゃなく、お互いに理解しようとする歩み寄りによって成立するのかなと思った。
商店の人は「売りたい」からコミュニケーションを通そうとしてくる。そりゃそうだ。こっちがそのコミュニケーションに乗ると、それはつまり「買いたい」になってしまう。
「お話をしたい」「聞きたい」のコミュニケーションは、昨日の死体博物館であった。親切な人だった。
電車、先ほどの女性も同じ電車に乗れたようで、にっこりと笑いかけあった。ああコミュニケーションだ。

電車の中は今では想像できないようなギュウギュウで、どの窓も開いていて、上には意味があるのかどうなのか、扇風機が回っている。

車内はガヤガヤと、あちこちで会話がなされている。僕は友人と向かい合い、膝がぶつかる距離でお互いにバッグを抱えていた。

隣のイスラム?の方がなにかをつくっている。あれは一体なんだろう。

画像11

緑色のクレープみたいな生地に、サキイカみたいなものを巻いて、みんなでシェアして食べ合っていた。これも、今の世の中となっては想像に難い。

夜ご飯のことをぼんやりと考える。

今日のお昼は美味しいものを食べれた。そしたら少し元気になった気がする。
内側からしっかりと栄養をとることが大事だと痛感した。良いお店に入ろう。

どんどんと日が落ちてくる。この国の夕焼けは本当に染みる。

画像12

画像10

行きの電車の窓から見えた、
バイクのサイドミラーに反射する光、森の中で洗濯物を干す男性、野良犬…
もう抜け落ちている。きっと記憶に残らない。いつまで残っていてくれるだろうか。

ほんとに、僕もこうして旅行記を見るまで、すっかり忘れていた。

けれど、こうして振り返ると、あの時の空気、感情が、立ち上がってくる。

僕はこの感覚が好きで、
実際に消えてなくなってしまうことが怖くて嫌で、

それは5歳の時、
(僕は幼い頃の記憶を話す時、5歳の時という。実際はその前後、何歳の頃か分からないのだけれど、)
家族で見に行った花火大会があまりにも綺麗で、それを自分の中に保存したくて、
自分の体の中に引き出しがあるとして、
実際に自分の体から取っ手を引き出す動きをして、そこにその情景を入れるようにあおいで、
(周りから見たら相当変な仕草をしていたと思う。)
消えないように、残そうとしていた。

その時の花火の様子は正直覚えていない。
けれども、その花火を保存しようとした行為は、こうして覚えている。


電車は、バンコクへとたどり着いた。




この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?